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サンショウバラ忌

6 月 14th, 2019

大好きなサンショウバラが咲き始めた。

こんなに美しい花なのに北海道や箱根の山に自生している原種である。

そういえば6年前の今頃、猫のバルが死んだっけ。

サンショウバラがハラハラと散る庭で、私の腕に抱かれたままバルは静かに逝ってしまった。

文字通りバラと一緒に散ってしまった。

あの日から遡ること8年、バルは勝手に我が家に棲み着いて、犬たちを脅しまくり、大喰らいでワガママで、暴れん坊、そのくせ寂しがりやの猫だった。

バルの名前の由来は、暴力を表すドイツ語「ゲバルト」からとったのだ。

きょうは「サンショウバラ忌」である。

ヨオッ!バアさん、やっとオイラのことを思い出してくれたのかい。

いつも言っているだろう、バアさんが思い出してくれる限り、オイラはバアさんの前頭葉に現れるっていうことを。

バアさんもこのブログで駄文を書散らしていないで、オイラの話す高尚な言葉を書き留めろよ。

ところでバアさん元気がないなあ、どうしたんだい?

「72歳になって何だか心細くなってきたの。この先どんな病気が待ち受けているんだろう、とかさ」

老いて病をどう生きるかだって?・・オイラが答えてやるよ。

といってもあの世にゴマンといる碩学の先人たちに聞いたハナシだけどさ。

良寛は「病むときは、病むがよろしく候」、つまり、受入れよ、と言っている。

良寛は子供と鞠ばかりついていたんじゃないんだぜ。たいした禅宗の坊さんだよ。

パソコンで「まり」を変換したら”真理”と出たよ。

なかなか深い偶然だなあ。

ドイツ中世の神学者エックハルトは、「人間はエゴを捨て、無になること」の重要さを繰り返し説いている。

つまり無我を唱える仏教みたいだなあ。

エックハルトは「病気になったときは、それが神のみこころであると受け取らなければならない」と言っているよ。

両名に共通している思想は、老いて病を生きるとき、ただいたずらにそれを嘆くのではなく、病という経験においてのみ開かれてくる「生きる質」というものを考えなければならないと言っている。

そのいい例として、歌人で国文学者の安田章生が、肺結核で入院していたときに詠んだ歌を挙げておこう。

「おのずからこころ閑かに生きゆけば病ある身は日月長し」(にちげつだぜ)

仕事もなくなり病を得た老人は、社会から離脱して生きることになってしまう。

しかしそこでは、日月長し、というように、世俗の時間を超えて、コスミックな時間が生きられるようになる。

「日月長し」とは、ひとつの抽象ではあるけれど、永遠が実時間に入り込んだような印象をオイラは受けるんだなあ。

バアさんには心強い言葉だろう?

バアさんも近い将来、これらのことを引き受けていかなくてはならないのだよ。それからオイラのところへ来るのさ。

「ワカッタ、ワカッタ。それよりきのうデッサン教室に行ってきたんだけど、満足に描けなかった。デッサンも挫折したからもうやめようかなあ」

オイラがあの世で会ったサルトルっていう、女好きのジイさんがこう言っていたぜ。

「挫折の中にはほとんど見分けのつかない成功が含まれている。希望がすっかり失われるわけではない。進歩というのはそういう形でしか実現しないのだ」と。

いいことを言うじゃあないか。

オイラなんかこの言葉を生きているうちに聞きたかったよ。

そうすれば何でも途中で投げ出さないで、ひとつくらいモノになっていたような気がするよ。

バアさんもその失敗作を、紙がすり切れるまで消して描いてを繰り返してみな。

そうやって新たにもう一度同じものを描いてみるのさ。

そうすれば、飛躍的に上達したものがそこにあらわれると思うぜ。

そういえば、ここの家のクソガキに「バルちゃん大好き!」なんて言われたことがあったなあ。

今思い出してみるとそんなこと言ってくれたのは、あのガキだけだったなあ。

オイラもまんざらじゃあなかったよ。

ところでバアさんの今の望みはなんだい?

「そうねえ、老後は2000万円必要だっていうから、そのカネに寄り添っていたいわねえ」。

バカ言ってんじゃないよ、バアさんは杖にでも寄り添っていろ!

オイラあの世に還るぜ!

「バルちゃん、又来てね。サンショウバラが咲くと、あなたが側にいるような気がするよ」。

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