1月19日
与謝野晶子で思い出したこと。
フェミニズムを論ずる上で忘れられないのは、与謝野晶子と平塚らいちょうとの母性保護運動に関する対立である。
母性保護の是非を論じたと聞けば、思わず「与謝野晶子=子沢山の母性礼賛者、平塚らいちょう=母性よりも女の自立を求める能力主義者」と思いこむところである。
しかし、実際は11人の子供を抱えて夫鉄幹の分まで生活費を稼ぎ、寝る暇もなかったはずの晶子の方が「母性に甘えるな!」と言い、婦人解放を唱えるらいちょうの方が「母性は社会全体で支え合わなければならない」と言うのであるから人の考えはさまざまだ。
この対立は今も似たようなもの。
文学者対社会改革者の違いか。
まあ私としては晶子の方に共感をおぼえるなあ。
結局平塚らいちょうは金銭面の苦労のなかった人である。(終生実家からの援助があったそうだ)
そういえば 私の内的フェミニズムは、上野千鶴子に代表されるような社会学者から受けたことはほとんどない。
大抵文学者か哲学者、あるいは芸術家からである。
例えばフェミニズムからは程遠いように思われる少女文学である『ハイジ』『若草物語』『あしながおじさん』から私は強い自立の精神を受け継いだ。
あの時代、19世紀末から20世紀にかけての少女小説は、ヨハンナ・スピリ・オルコット・ウエブスターなど女性作家によって書かれている。
これがなかなかの曲者で、深く読んでいくと全編に強く流れる主張は、女は経済的にも精神的にも自立せよ、倫理的であれ というものだった。
そこにこそ私は感動したのだ。
心の底から湧き上がるような、真のプライドとは何か、ということを教えられたように思った。
それは社会から押し付けられる“道徳”ではなく、自らに課す倫理なくしては考えられないものである。
子供ながらに私は、当時社会から不当に虐げられていた女性作家たちの心の叫びを感じ取っていたのである。
現代の社会学者は人間の深いところから表出する魂の叫びについては、そのことを説かない。
一方中学生になって読んだモーパッサンの『女の一生』に私は強いショックを受けた。
モーパッサンは自然主義文学の騎手らしく、女が置かれた屈辱的な状況をこれでもかというほど描いている。
物語を読む醍醐味は主人公に自分を重ねワクワクしながら読むこと、つまり自己のロールモデルとすることだ。
『女の一生』のジャンヌのように、誇りなきヒロインに自己を重ねて読むことなど到底できなかった。『ジェーン・エア』とはエライ違いだと思った。
途中で放り出したくなったが、最後まで読み通せたのはモーパッサンの筆力による。
15歳の少女ケイコが「私は将来決してジャンヌのような女にはならない!!」という決心をさせた作品だった。
このようにして私の内なるフェミニズム思想は文学作品によって醸成されたのである。
フェミニズム思想といってもそんな大袈裟なものではない。
男女が仲良くお互いに仕事を持ち、家事も育児も助け合い居心地の良い家庭を作っていくこと、そこには家父長制にあるような主従関係もない、望めば選択的夫婦別姓もOKといったごくごく当たり前のことである。
そんな当たり前のことがこの国ではなかなか進まない。
聞くところによると“家庭平和”を説くカルト宗教団体と政治家の癒着がそれらを阻んでいるという。
「こども庁」という名前で発足するはずだったのに、政治家に食い込んでいるカルト宗教団体から“家庭”を入れろという横槍が入って「こども家庭庁」になったそうだ。
「世界平和統一家庭連合」胡散臭いなあ。
“家庭”という文言を当事者以外の者や政治家が言い出すとロクなことはない。
これでは出生率も下がるはずだ。
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それにしても与謝野晶子のあの情念、体力、知力には辟易とさせられることも多いが、それでも私の好きな晶子の歌を。
「いづくへか帰る日近きここちして この世のもののなつかしきころ」
今の私と重なるなあ。
ゴハンまだあ?