3月18日
低地は雨だというのにここは雪。
でも春の雪だからすぐ溶けそう。
友人から「いま遅まきながら小林秀雄の『モオツァルト』を読んでいるんだけど、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる、ってどういうこと?」というメールが来た。
私だって若い時はただなんとなく感覚でわかっていただけだった。
しかし歳を重ねるのはいいものだ。
三木清を読んでいたら「宗教はもとより芸術も、感傷からの脱出である」という箇所に出会った。
そうか、そういうことだったのね、とやっと合点がいった。
モーツァルトのかなしみは感傷にとどまっていない。
感傷に溺れるような性質のものではない。(これはこれでいいものだけど)
そこを突き抜けるから疾走するのだ。涙は追いつけないのである。だから明るいのだ。
「知らずに歳をとるのと、知って歳をとるのとではエライ違いだわ」とこの友人は以前言っていたっけ。
小林秀雄がこの“モーツァルトのかなしさは疾走する”を書いた時には弦楽五重奏曲第4番(K.516)を念頭に置いていたらしい、ということをWikipediaで調べた。
PCもスマートフォンも便利ね、年寄りには必需品だわ。
友人にはYouTubeでこの曲を聴くことを薦めたが、もっと短いのがいいというので、晩年の絶筆とも言えるような4分足らずの曲を薦めた。
『アヴェ・ヴェルム・コルプス』
少人数、またはソロで歌う美しさが結晶化したような曲である。
ウィーン少年合唱団のものか、黒人歌手レオンティン・プライスのソロがいいなあ。
独唱は詩、オーケストラは小説・・・・これ息子の受け売り。
人間の声ほど美しい楽器は存在しないというが、それを思い知らせて余りある『アヴェ・ヴェルム・コルプス』である。
この曲は、死に直面していることを知るモーツァルトが、神のもとへの旅立ちを決意し、達観した者の心情を表現したものであろう。
「アヴェ・ヴェルム・コルプス」とはラテン語で、「めでたし まことの御体(おんからだ)」という意味で、イエス・キリストへの感謝と賛美が歌われている。
以下はその歌詞。
めでたし、乙女マリアより生まれ給いしまことのお体よ
人々のため犠牲となりて十字架上でまことの苦しみを受け
貫かれたその脇腹から血と水を流し給いし方よ
我らの臨終の試練をあらかじめ知らせ給え
モーツァルトは熱心なカトリック信者ではなく、フリーメーソンに属していたという。(フリーメイソンーには「自由」、「平等」、「友愛」、「寛容」、「人道」の5つの基本理念がある)そうだ。とはいえあの時代、キリスト教から自由であったわけではなく、イエス・キリストを内面化していたに相違ない。
インターネットってホント便利。昔はこれらのことをわざわざ図書館で調べていたからねえ。
高音に転調したボーイソプラノの清らかさといったら!
湿った雪はイヤだなあ。