ルーターが壊れたのでパソコンが使えなかった。メールがいっぱい溜まっていて不義理をしてしまった。最近は何をするのも億劫。夕食も息子に作らせている。松本の一人暮らしの友人二人は「それをしなくなったらおしまいよ。食べることは生きることだからね」と言う。それでも3000歩くらいの散歩は欠かさない。特に夕方の散歩が好きだ。最近アウシュビッツの生還者二人の本を読んだ。ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』これは学生時代必読の書と言われ、生協に平積みにされてあった。この本は心理学者の立場から書かれているのであるが、若い私はちゃんと理解できたのかどうか。そして改めて50数年ぶりに読み直してみた。ああ、私は馬齢を重ねたのではない。今度こそフランクルの伝えたかったことが体に染み込むように伝わってきた。「たとえ明日死ぬとしても生きることには意味がある」「人生に何かを期待するのではない、人生から私たちは何を求められているのか」・・・・年寄りにはありがたい言葉ではないか。そしてもうひとりイタリアのユダヤ人プリモ・レーヴィの『これが人間か』と『溺れるものと救われるもの』。フランクルはアウシュヴィッツ的な極限状況における人間精神の拠り所 を示したが、レーヴィはそのような極限状況がなぜ生じたのかを究明しよ うとした。 フランクルとレーヴィの間にあるのは過酷な現実 をいかに生き延びるかというフランクルの「臨床的」な次元と、その現実の原因を究明 しようとするレーヴィーの「病理学的」な次元との差異であるといえよう。フランクルは精神医学者で敬虔なユダヤ教徒。レーヴィーは優秀な化学者で無神論者。フランクルは90過ぎまで生き、レーヴィーは生還後40年目67歳で自殺する。私は断然レーヴィーの著作を評価する。しかし打ちのめされた。私は今まで哲学を勉強してきたけれど、哲学は無力だ。しかも自分では料理も洗濯もトイレの掃除もしたことのないような男が、書斎で思弁的に書いたものなどなんの役にも立たないなあ、ということをレーヴィーの2冊の著作から思った。残ったものは悲しみだけ。
トラ坊がネエチャンの胸に抱かれて幸せそうに寝ている。こんな幸福がいつまで続くのだろうか。世界はまたあの悪夢のような時代に向かっているような気がする。私たち団塊の世代の人間は集まると必ず「私たちは逃げ切り世代だね」と言いつつ後世の人たちのことを憂いている。
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