東京から2時間、名古屋から2時間半。八ヶ岳中央高原 原村へようこそ!

ペンション グリーングラスでのんびりとした休日はいかがですか?
森の散歩道や、渓流、白樺の林をぬけて薫る高原の風。
あふれる自然に人も犬もきっとリフレッシュできますよ。
長野県諏訪郡原村 中央道諏訪南ICより自動車で約10分
首都圏から一番近い”村”である原村のペンションです。
長野県諏訪郡原村17217-1682






我が家の犬や猫、お客さんの犬、八ヶ岳の自然などについての日記を綴っています。
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12月5日

12 月 5th, 2016

下草の刈られた林の中を散歩した。

きょうは隣のおばさんも一緒なので、ギャビは大はしゃぎである。

普段はまるで死んでいるかのように、少しも動かないギャビであるが、きょうは私たちのまわりをぐるぐる走り回る。

どこにそんなエネルギーを温存していたんだろう、と驚いてしまった。

犬はやっぱり群れの動物だ。

2人で行く散歩より、3人、4人と増えればギャビの興奮度はいやが上にも上がる。

初冬の高原は緑も花もなく、殺風景であることこの上ない。

そんな中、隣のおばさんの赤と紫の、とんでもない色の組み合わせの服が無彩色の風景によく映える。

隣のおばさんは東京にいるとギャビより動かないらしい。

テレビを前にして座ったきり、微動だにしないらしい。

そして甘いものには目がないらしい。

それでも健康オタクであるから、“運動しなくっちゃ”ということで、原村に来るとギャビを日に2、3回は散歩に連れ出す。

きょうは私まで誘われてしまった。

部屋でゴロゴロしたかったのにいい迷惑だ。

それでも一旦外に出てみれば、私は散歩が好きだから、つい長く歩いてしまった。

本のことあれこれ

12 月 3rd, 2016

私の部屋は約8畳である。

そこに机、本棚、ベッド、タンスと詰め込まれていて狭い。

地震のとき、倒れてきた本棚の下敷きになり、亡くなった人がいるときいたので、これはマズイと思い、丈の高い本棚と中身の本を処分した。

思い切ってたくさんの本を処分したので、自分の好みの傾向とこれからの私にどの本が必要かがよく見えてきた。

その中にどうしても捨てられないで、今日まで持ち続けた本が3冊ある。(古いもので60年前のもの)

その中の一冊がこの古い岩波の文庫本である。

17歳の誕生日のとき(ジュウナナサイ、なんだか心躍る響きではないか)はるばる自転車に乗ってやってきた祖父が、私に誕生日のプレゼントをくれるという。

祖父は「もうお前も愛について知ってもいいころだ。それについての本を持ってきた」と、おごそかに言うではないか。

私は「愛についてかあ、うまくいけばエロ本、悪くてもハッピーエンドの恋愛小説」と喜んだのだが、祖父がズボンの尻ポケットから取り出したのは、自分が読み終わったクタビレた文庫本だった。

おまけに自分の印鑑まで押してある。

本が貴重だったころの昔の人は、蔵書に印を付けていたのだ。

ちょっとガッカリしながら題名を見ると、プラトンの『饗宴』だった。

哲学書ということで、もっとガッカリしたのだが、表面的にはありがたく頂戴し、お礼を言ったものの読む気はまったくなかった。

そうしたらそれを見透かすように、祖父は「いますぐ読め」という。

祖父の命令は絶対だ。

しかたなく読み始めたら、難しいけれど内容は深いものだった。

宿題も受験勉強も忘れ、ひたすら読み耽った。そのころ祖父はもう自宅に帰っていた。

内容は、古代ギリシアでのソクラテスと当時の著名人が「愛について」を語る対話編である。

当時の私にとっておもしろかった章は、喜劇作家のアリストファネスが語る「アンドロギュノス」であった。

喜劇作家らしくひとつの面白い物語をつくりあげている。

人間はもともと背中合わせの一体(アンドロギュノス)であったが、強くなりすぎたので神によって縦に切り離され、背中を縫い合わされた。(おかげで供え物も倍になって神も喜んだそうな)

このため人間は互いに失われた半身を求めるのである。

男と女で一体だったものが異性愛者で数が多い。

男と男、女と女で一体だったものが同性愛者で数が少ない、というわけである。

ここに書いてしまえばそれだけのことであるが、さすがプラトンである。

彼が記述するそれらの内容は格調高く、人間の尊厳に基づき、人間とはなにかを深く洞察するものであった。

その時以来、私は性的少数者に対する偏見をもつことなく今に至っている。

つまりそのとき得た確証は、憎しみと差別は先入見と偏見と嫉妬がもたらすものであるということだった。

今世界中にどれだけこれが満ち満ちていることか。

祖父は大きな遺産をのこしてくれたと同時に、負の遺産ものこしてくれた。

それ以来私は学校の勉強に身が入らず、プラトンを読みあさることになる。

おかげで成績は下降の一途をたどり、社会の周縁部で生きていくことになるのだが、痛痒はまったく感じていない。

今は、左腕には死を、右腕には生を抱きつつ、ノンキに楽しく本を読んで暮らしている。

よく隠れるものはよく生きる。(デカルト)

忘れるということ

12 月 2nd, 2016

バアさん、到来物の高級かまぼこを供えてくれてアリガトよ。

バアさんうまいものを食ったあとだっていうのに、何腹立ててんだよ。

ナニ、バカ息子とケンカしたんだってえ?

いいトシをして腹を立てるなんざあ、山で目の前に転がってきた石に向かって怒るように愚かなことだぜ。

不愉快なことに対しては、冷静かつ事務的に向かえば、うまく受け流していかれるもんだよ。

それにバアさんの特技である“忘れる”ということも力を貸してくれる。

宗教の立場からいえば、人をゆるすということは神にしかできないけど、バアさんは忘れればいいのさ。

本気で真面目に“忘れる”ということに取り組まなければならないよ。

いい修行だぜ。

ボケの花

アレっ、バルちゃんの説教を左の耳から右の耳に聞き流していたら、私何に腹をたてていたのか忘れちゃった!

11月30日

11 月 30th, 2016

4時少し前、ギャビを散歩に連れて行こうとしたら、どうしても“行かない”と抵抗する。

まったく病気でもないのに、散歩に行きたがらない犬なんて世の中にいるのだろうか。

と呆れながらも、甘い私はそのままギャビと昼寝してしまった。

5時少し前にやっと双方が重い腰をあげ、外に出たらもう薄暗い。

それでも軽快に早歩きをして、いつものコースを廻る。

そのうち日もとっぷり暮れて、あたりは真っ暗になってしまった。

イヤな予感がしたのだが、やっぱりギャビが枯れ葉の積もる傾斜面でウンコをした。

アイツはどうも傾斜した場所でいたすのが好きらしい。

転がってしまったブツを回収しようとしたのだが、どこにあるのか皆目見当がつかない。

ニオイを頼りにあちこち嗅ぎ回り、やっとビニール袋越しに手にしたときは歓声を上げてしまった。

ウンコひとつに情けないハナシである。

やっぱり5時過ぎの散歩には、懐中電灯が必要であると反省した。

夏の5時過ぎの散歩は涼しくて、身も心もゆったりしながら夕焼けなんぞを眺めて楽しめるが、冬の散歩はそうはいかない。

気を引き締めて残った雪や氷に足をとられないように、注意深く歩かなくてはならない。

これが年寄りにはいい刺激になるのだ。

家に戻ったギャビは子分の膝枕でグッスリである。

いい気なもんだ。

友人からメールが来ていた。

きのう11月29日は『若草物語』の作者オルコットの誕生日であったという。

没後128年経つアメリカの女性作家である。

彼女は少女時代この作品から多くの影響を受けたそうだ。

もちろん私もである。

原題は『リトル ウイメン』というのだそうだ。

つまり子供でも、作者は一個の人格として尊重していることのあらわれである。

『若草物語』はほんとうに懐かしく、私の人格形成を成す上での重要な作品であったことを、

切ない想いとともに反芻した。

私は母の弟も含めた男3人の兄弟に囲まれ、末っ子として育った。

当然彼らは少女小説などバカにしていたから、私もその風潮に染まり彼らの読むものに合わせてきた。

つまり『若草物語』『ハイジ』『あしながおじさん』『赤毛のアン』などは禁断の書であった。

でもこっそり読んだときの衝撃は今でも忘れられない。

中でも『若草物語』と『あしながおじさん』は私に決定的な何かを残した。

自分を作中人物のジョーやジュディに重ねて、迷える少女時代を乗り切ったのである。

いうなれば、それらの主人公は、不条理にも世界に投げ出された私が、基本的な「わたし」を獲得していく過程で重要な支えをしてくれたのである。

いわばロールモデル、メンターの役割をしてくれたのだ。

これら女性作家からの強烈なメッセージは「自立せよ」そして「倫理的であれ」というものだった。

後年私は社会学者の説くフェミニズム思想はテクストとして参考にしたという程度で、ほとんど影響は受けていない。

オルコットやウエブスターの投げかける「自立せよ」「倫理的であれ」というメッセージは私の魂深くに染み渡り、今もその呪縛は解けていない。

もちろんそれは私の核になっている。

思うにこれは、アメリカのプロテスタンティズムを土台に据えたものであるには違いないが、それなくしては出来ない作品である。

そしてそれに深い影響を受けた東洋の、かつての少女ふたりが、夢中でオルコットを共有している。

今ならさしずめ、まったく老女に『若草物語』もないもんだ、キモ〜イ!

というところだろうか。

ルイーザ・メイ・オルコット Louisa May Alcott headshot.jpg

初雪

11 月 28th, 2016

先日降った初雪の森をギャビと歩いた。

雪を喜ぶ犬とバアさん。

どちらも子供時代にかえったようだった。

雪の体験をまた新しくして、それに名辞を与え経験と成す。

森有正流にいえば、そういうことになるのだろうが、犬と私ではただただ“初雪はいいなあ”という程度のことでしかない。

ところで私は何をしているのだろう。

サルトル風にいうなれば、私は世界に偶然投げ出された実存、どのようにして私という本質を獲得していくのだろう。なんちゃって。

社会組織に全く無縁だった私。むしろそこを避けてきた私に今更何ができるだろう。

時代はどう作用してきたのだろう。

69歳にもなって何ひとつ社会的貢献などしてこなかった私であるが、かつてのようにそのことに対する後ろめたさはない。

今は確信犯的に社会がなんだ!世間が何だ!と思っている。

もっといい時代が過去にはあったかもしれないし、これから到来するかもしれない。

あるいはその逆もある。

それでも今歩いているこれが私たちの時代であり、私は今の時代とひとつになるべきだと思っている。

トシをとったら今しかないもんね。

私はこの先、追憶の中にしか生きられない、なんてことはないだろうなあ。

だって過去はみんな忘れてしまったから。

と、雪を踏みしめながら、とりとめもない想念が浮かんでは消える。

雪の世界は文句なく美しい。

久々に走り回って“はしゃぐ”ギャビがたまらなく愛しい。

この瞬間は特別なものだ。

私にとって最大のリアリティである。

ネットことばでは“リア充”というそうだ。

バカみたい!

普段は散歩も面倒くさがるギャビが、きょうは走る、走る。

そういえばサルトルの晩年は一文無しだったという。

自ら創刊した新聞「リベラシオン」やその他社会活動に収入をつぎ込んだからだ。

アンガージェした哲学者サルトル、えらいもんだ。