2月28日
きょうで2月も終わり。
きのうの土曜日は、ここペンションヴィレッジに犬連れのお客さんが多かった。
そろそろこの小さな地域も始動しはじめたのかな、と感じた。
今朝も寒かったけれど、楽しく散歩した。
例年なら2月が終わるとすぐ、お客さんを迎える準備にどこのペンションも取りかかるのだが、今年は鈍い。
お客さんに提供する春の料理を考えているがどうなることやら。
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禅を信奉し、毎週寺で座禅をしている知人が「悟り」のメカニズムを知りたいという。
以前私が「そんなものは脳の一部の痙攣みたいなものじゃないの?ある種の心身耗弱みたいな」と言って怒られた。
まあ今はそんな乱暴なことは言わないけれど、聞くところによると「悟り」の境地になったとき、非常な幸福感に包まれるという。
それが何か脳内物質の分泌によるものかどうかは分らない。
いずれにしても自己が自分の身体だけに収まっているのではなく、ヒュームのいう「自我という知覚の束」が途方も無く拡張していくような状態になり、やがてその自我は消滅し無我に置き換えられていくそうだ。
そのうちAIの解析でメカニズムのある程度は分るかもしれないが、「悟り」はそんな表層的なものではなく人間のはるか深みから、仏の呼びかけに呼応するようなものかもしれないそうだ。
私にも仏が呼びかけてくれないかなあと思うが、どうやら修行しないと呼びかけてくれないらしい。
座禅なんてまっぴらゴメンだわ。
ああ、縁なき衆生は度し難し。
オイラならいつだって呼びかけてやるぜ。
2月26日
2月の終わりに降る雪は何だか物悲しい。
ストーブを背にコタツに入っていると暑いくらいだが、これがやめられない。
当然椅子に座ったきりなので運動不足である。
一日何歩くらい歩いているのだろうと、携帯電話に万歩計機能をセットして歩いてみた。
朝、普通に歩いていると約3000歩弱。
これに加えて夕方の散歩が同じくらい、そして夜のトイレ散歩が長くて1000歩。
つまり私は一日6000歩以上歩いていることになる。
単純計算で1ヶ月18000歩。それが3ヶ月で540000歩ということになる。
それの半分としても私は3ヶ月で270000歩も歩いたことになる。
スゴイなあと感心すると同時に、積み重ねの恐ろしさも思うけど、今更ね、という気がしないでもない。
年寄りはこれだけ歩けばもういいか、と安心した。
一万歩も歩くなんて狂気の沙汰だ。
12月から私は散歩用の靴に、小さな鋲が6個着いた滑り止めの細いベルトを巻いている。
その状態でこれほどの距離を歩いていたせいであろう、鋲の当たる足の裏にタコができた。
これが痛いけど凍り道で滑って転ぶ方がもっと痛いので、足裏のタコの痛みはガマンしている。
すべてが快適なコロナ休みではない。
そろそろお客さんに来て欲しいけど、これだけ空いてしまうともうお客さんも来てくれないなあ。
気長に待とう。
2月22日
つい数日前は非常に寒かったのに、きょうはまるで春のような気候である。
福寿草がいきなり出てきた。
植物の智恵は大したもんだと感心しながら、大学の入学試験にどうして「生物」を必須科目にしないのだろうと思った。
特に医学部。
大抵の学生は生物、物理、化学のうち2択で生物以外を選ぶという。
点数を取りやすいというが、医者の扱うものは我々人間、生物だ。
そして私たちはもう地球の自然資産を浪費してはいけないのだ。
ウィルスはコウモリや野生動物を宿主としているが、人間が森林伐採など自然破壊によってウィルスの生息地にまで行き、おまけに野生動物を売り買いし、感染を惹き起しやすい環境をつくったのは現代社会なのである、ということを新聞で読んだ。
だから私は、将来を担う若者には動植物を扱う「生物」を学んで欲しいと切に願うものである。
この「自然」を知ったら、どんな無神論者であっても傲慢な態度を捨て、敬虔な気持ちになるに違いないのに。
我々ヒトも自然の一部であることを忘れてはならないのだ。
既に色々なかたちでしっぺがえしがきている。
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もう冬にサヨナラかと思うとちょっと寂しい。
ちぢこまってじっと暖をとる、といった自虐的な姿勢が大好きな私にしてみれば、この明るさは迷惑だなあと勝手なことを思う。
きのうはどこの街も人でいっぱいっだったらしい。
私みたいな人ばかりであればコロナウィルスも蔓延しないだろうよ。
まあ、外に出たいんだね。
犬だって朝夕の散歩の他に、毎日天気さえよければ外に出してくれと要求する。
嬉しそうに、しばらく庭で遊んでいる。
犬には食べるか、外に出るしか楽しみはないもんね。
犬でなくてよかった。
2月19日
きょうが寒さの底だと言う。
今朝の気温はマイナス11度。
道路は先日降った雪が融け、それが夕べのうちに凍り付き、歩行には非常に危険な状態だ。
それでも散歩に出るという老人と老犬。
誰も歩いていない。
ギャビは足の裏が冷たいのか、それとも氷片が肉球の間に入ったのか、ビッコをひきはじめた。
二つの用を済ませてすぐ戻り、暖かな部屋とヨメゴのおチエが淹れてくれたコーヒーを飲んで一息つく。登校前の孫は身支度に余念がない。
こうやって寒い外から戻ると、暖かい部屋と温かい飲み物、そしてあたたかい“人”がいる。
これが極楽でなくてなんであろう。
私は夫が亡くなったあと、しばらく一人暮らしをしていた。
こんな寒い山の中で一人暮らしをしている老人は、心身ともにタフなんだろうなあと思う。八ケ岳山麓にはそんな老人が結構いる。
私は一人暮らしの時、犬と冬の散歩に出る際は、まずストーブをつけ、部屋を明るくし、電気ポットにお湯がタップリあることを確認してから出た。
暗くて寒い部屋に帰ることほど、惨めなものはないからだ。
犬や猫に餌を与え、それから自分の餌をつくってテレビを見ながら食べる。
まあ食事というより、一人暮らしのご飯なんて餌みたいなもの。
テレビはつまらないというけれど、一人暮らしの老人には、これはなくてはならないものなのだ。
老夫婦の夫が、妻の話す他愛も無いおしゃべりを無言で聞き流しても、あるいは妻がよく喋る夫の政治談義を、左の耳から右の耳に無言で聞き流しても、これは大切なことだ。
会話が双方向である必要など、老夫婦にはもはやどうでもいいのだ。
人の声がするだけで双方が安心する。
そんな人の声の役目をテレビは担ってくれているのだ。
つけっぱなしのテレビから人の声がする、音楽が流れている、それだけで有機的な空間が広がっているような気がするのだ。
テレビに向かって独り言をいうことは、さすがの私もミジメで情けないと思ったから、犬や猫に話しかけては、つとめて喋るようにしていた。
世の中の老夫婦たちよ、少なくとも犬や猫より、内容はどうであれ日本語の通ずる相手がいるということを有り難いと思わなければいけないなあ。
木でも相手になるの?
2月18日
隣のおばさんは園芸が趣味だ。
ガーデニングのできない冬は、室内でランのシンビジウムを大切に育てている。
先日、豪華に咲いたシンビジウムを、気前よく一茎切り取って持ってきてくれた。
そこで冬越しのため、鉢植えにして玄関に取り込んでおいた月桂樹の葉と一緒に活けた。
たったひと茎にこれだけたくさんの花が咲いていると、不自然だけど華やかだ。
そして不思議だ。
どうやったらこんなに人工的な咲かせ方ができるのだろうと、ちょっとネットで調べてみたがすぐ投げ出した。
どうやら私には一番向いていない栽培方法であるらしい。
どこに飾ろうかと迷ったがトイレが一番よかろう、ということになった。
パッと華やいだ空間になった。
トイレから出て郵便物を取りに外に出た。
打って変わって寒々とした風景。
あまりの違いに感動し写真に収めた。
こんな無機的な景色が初夏になると、一斉に緑に変わり、色とりどりの花が咲く光景に変化する様はまるで魔法のようだ。
植物の智恵と自然の不思議を思わないわけにはいかない。
雪を踏みしめ空を眺めながら、スピノザの「神即自然」を思った。
スピノザにとっての神とは「因果関係の連鎖の網の目が無限に広がる必然の世界」のことで、それが「神即自然」であり、全宇宙そのものをいうのだそうだ。
つまり神がすべての出来事の必然的な原因になっているということだ。
自然の不思議に遭遇していると、こんなバチ当たりな私でも敬虔な気持ちになってくる。
そんなことを漠然と考えていたら滑った!かろうじて転ぶのだけは免れた。
神様ありがとう!
気温はマイナス4度。
きょうも寒い。
すっかり冷えた。
美しいトイレに駆け込もう。