東京から2時間、名古屋から2時間半。八ヶ岳中央高原 原村へようこそ!

ペンション グリーングラスでのんびりとした休日はいかがですか?
森の散歩道や、渓流、白樺の林をぬけて薫る高原の風。
あふれる自然に人も犬もきっとリフレッシュできますよ。
長野県諏訪郡原村 中央道諏訪南ICより自動車で約10分
首都圏から一番近い”村”である原村のペンションです。
長野県諏訪郡原村17217-1682






我が家の犬や猫、お客さんの犬、八ヶ岳の自然などについての日記を綴っています。
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4月2日

4 月 2nd, 2023

復活したギャビはまだまだ元気だ。

親と子は根源的な他者であるということを、年齢を重ねるたびに思う。自分の子供に対してもそうである。

それを認めてはじめて、他者に対する優しさも寛容さも出てくるように思う。

なぜならそのことはエゴの滅却だから。

と、先日のブログに書いたら友人から「冷たいのねえ」というメールをもらった。

でも親と子は根源的な他者である、ということを認めることが子供にとっても救いになるはずである。

それは私が子供に示してやれる愛情に他ならない。孫に対してもそうである。

政治の世界の世襲が酷い。

これこそがエゴ丸出しの最たるもののように思う。

芸や技術の一子相伝とはまるで意味が違う。

日本の議院内閣制は、イギリスの制度に倣ったものだという。(中学生のときに習った)

しかし今やその実態はイギリスには遠く及ばず形骸化したものになっている。

イギリスではブレア首相時代に可能な限り世襲を排除しようとした。

今も同一選挙区から親族は立候補できない。

そして日本では世界一高い供託金制度によって、貧しいが志ある新人が立候補できない仕組みになっている。

衆議院・参議院 比例代表-600万円

衆議院小選挙区、参議院選挙区、都道府県知事-300万円

と金がかかる。

先進国ではほとんどの国が供託金制度を廃止しているか10万円以下である。

政治に無関心でひっそりと身を隠すようにして生きている私でも、この国の多くの矛盾を目の当たりにし、ますます劣化していく国を憂いている。

厳しかった冬を乗り越えたギャビと私。

この分ではお互い5月と7月の誕生日を迎えられそうである。

3月31日

3 月 30th, 2023

孫が母親の実家である奈良に行ってきた。

奈良公園で鹿の子供に鹿煎餅を与えている。

それを持ち帰りギャビにも食べさせた。

ネエチャンから大喜びでもらうギャビ。

知人が「自分史」を書いているという。

今78歳だから80歳までには書き上げたいのだそうだ。

その意義は過去の整理でもあるし、自分がどう生きたかということを子供や孫に伝えたいのだという。

私にも書くようにとその人は勧める。

私は嫌だね。

過去は常に回想する人にとって都合よく整理されたり、塗り替えられたりするからだ。

過去にしでかした醜悪な所業など書けるのかねえ。

流行り言葉の“黒歴史”には蓋をするということか?

人はその行為を弁明しようとしたり、書き換えたりする瞬間に、人としての誇りを失う。

そんな欺瞞は精神の退行以外の何ものでもない。

読者を子供や孫に於いているのであれば尚更であり、その時点で誠実であることから離れる。

誰でもそうであるように、私はこの世に理不尽にも投げ出されて75年経った。

冷静に今の自分の気持ちを表明すれば、それでも親を恨んだり感謝したりすることもなく、まあまあ両親は親の責任を果たしたなあ、くらいに思っている。

もちろん愛着はある。

親との関係を相対化するたびに私は自由を獲得し、大人になっていくことを感じる。今もそうだ。

そして親と子は根源的な他者であるということを、年齢を重ねるたびに思う。自分の子供に対してもそうである。

なぜならそのことはエゴの滅却だから。

それを認めてはじめて、他者に対する優しさも寛容さも出てくるように思う。

自分史ねえ、私の場合、自分の生きた歴史は自分だけのものにとどめておくのが良い。

それでも綻びから時々漏れ出すけどね。そのくらいがちょうどいい。

高知の田舎に移住して、半自給自足を営んでいる友人夫妻は、時々子供達に宛てて自分たちの近況を写真とメールで伝えている。

私にも送ってくれるけど、そこには作物や動植物、虫、薪の確保のことなどがありとても面白い。

客観的な写真とともに、「今」の記録としてあるからいいのだ。

子供たちはちゃんと返信しているのかなあ?

しなくてもいいけどね。

双方が見つめ合っている。

どちらも文句なく可愛い。

3月24日

3 月 24th, 2023

福寿草とともにこの辺りの春を告げる花「プルモナリア」

ヨーロッパのバルカン半島原産である。

バルカン半島は帝国主義の諸矛盾が集中し,一触即発の状況にあったことから「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれ多くの紛争をもたらした。

現在この地域は,アルバニア,ギリシャ,クロアチア,ブルガリア,ボスニア・ヘルツェゴビナ,マケドニア,セルビア,モンテネグロ,ルーマニアで形成されているそうである。

世界史で勉強したけどあまりに複雑で、今もってその紛争の原因や関係がよく理解できていない。

退化した私の脳がおぼえていることは、この青い花が、かの地にまだ雪が残る頃から咲き始め、原野一面を青紫で覆うということだけである。

平和のブルーである。

そしてまたロシア人作家パステルナークの書いた『ドクトル・ジバゴ』、これを映画化したものを私は若い時観た。

非常に印象的だったシーンは、まだ雪の残るロシアの原野に一面に咲き乱れる黄色い水仙の花だった。

ブルーとイエローから連想するもの、それはウクライナの国旗だ。

花は平和の象徴というのに、この地球上に紛争の絶えることはない。

今のところは安全な場所から覚える私の無力感と悲しみ・・・虚しい。

明治時代の宗教思想家の「綱島梁川」は「神はまず悲哀の姿して我らに来る」という。

神や仏があるならば、それはまず悲哀の姿をして我々に来るのだと。

それゆえ悲哀があるということは、それ自体がすでに神と人間とのあるやりとりの現れなのであり、悲哀というものを持つこと、それがすでに半ば「救い」なのだ、というのである。

この世界の惨状に宗教なんて役に立つのかねえ。

宗教なんてやってらんないわ!!

悲哀を持つことが神とのやりとりであり、それがすでに半ば「救い」なのだというならば、それは個人的なものに限定してちょうだい。

3月20日

3 月 20th, 2023

フキノトウがあちこちにたくさん出てきた。

散歩のついでに摘んでくる。

フキノトウの天ぷらは一家で大好きだからたくさん揚げる。

フキノトウのみでお皿に山盛り揚げる。

次の日はまた摘んできてフキ味噌をつくる。

炊き立てのご飯にこれを乗せて食べると、山の暮らしもいいなあと思う。

アルコールを飛ばした酒で伸ばして、ステーキやローストビーフのソースにも使う。

私は子供の時からフキやワラビやタラの芽など山菜が大好きだった。

でも生家のまわりにはフキくらいしかなかったので、ここに住んでワラビやタラの芽などいくらでも採れるので欣喜雀躍したものだ。

それどころかコシアブラとかコゴミ、ウコギ、山ウドなど、初めての山菜も口にすることができたので嬉しかった。

山菜の調理法は地元の人のやり方が一番美味しいということも知った。

それまでの私は料理番組で見た通りのフキ味噌を作って美味しいと思っていたが、地元の農家のおばさんが私の眼の前で作ってくれたフキ味噌に仰天した。

テレビや料理本では、フキノトウを茹でて水にさらしてアクを抜き、絞って細かく刻み、みりん、酒、砂糖で練り上げた味噌に混ぜる。というやり方が普通であった。

でも地元の農家のおばさんは、摘んできたザルいっぱいのフキノトウを洗って手でちぎり、熱したフライパンにごま油を入れてフキノトウをジャー!っと放り込む。

味噌とともにちょっと炒めたら、一升瓶から酒とみりんを注ぎ、砂糖も入れて練り上げてハイ終わり。

10分もかからない。

これがうまいのなんのって!以来私はこのやり方を踏襲している。

先日降った雪が日陰にはまだ残っている。

そんなところを選んでギャビは楽しそうに歩く。

朝は6時から15分の間に私を起こす。

まるでめざまし時計のようだ。

ここは春と冬がまだ共存しているようだ。

3月18日

3 月 18th, 2023

低地は雨だというのにここは雪。

でも春の雪だからすぐ溶けそう。

友人から「いま遅まきながら小林秀雄の『モオツァルト』を読んでいるんだけど、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる、ってどういうこと?」というメールが来た。

私だって若い時はただなんとなく感覚でわかっていただけだった。

しかし歳を重ねるのはいいものだ。

三木清を読んでいたら「宗教はもとより芸術も、感傷からの脱出である」という箇所に出会った。

そうか、そういうことだったのね、とやっと合点がいった。

モーツァルトのかなしみは感傷にとどまっていない。

感傷に溺れるような性質のものではない。(これはこれでいいものだけど)

そこを突き抜けるから疾走するのだ。涙は追いつけないのである。だから明るいのだ。

「知らずに歳をとるのと、知って歳をとるのとではエライ違いだわ」とこの友人は以前言っていたっけ。

小林秀雄がこの“モーツァルトのかなしさは疾走する”を書いた時には弦楽五重奏曲第4番(K.516)を念頭に置いていたらしい、ということをWikipediaで調べた。

PCもスマートフォンも便利ね、年寄りには必需品だわ。

友人にはYouTubeでこの曲を聴くことを薦めたが、もっと短いのがいいというので、晩年の絶筆とも言えるような4分足らずの曲を薦めた。

『アヴェ・ヴェルム・コルプス』

少人数、またはソロで歌う美しさが結晶化したような曲である。

ウィーン少年合唱団のものか、黒人歌手レオンティン・プライスのソロがいいなあ。

独唱は詩、オーケストラは小説・・・・これ息子の受け売り。

人間の声ほど美しい楽器は存在しないというが、それを思い知らせて余りある『アヴェ・ヴェルム・コルプス』である。

この曲は、死に直面していることを知るモーツァルトが、神のもとへの旅立ちを決意し、達観した者の心情を表現したものであろう。

「アヴェ・ヴェルム・コルプス」とはラテン語で、「めでたし まことの御体(おんからだ)」という意味で、イエス・キリストへの感謝と賛美が歌われている。

以下はその歌詞。

めでたし、乙女マリアより生まれ給いしまことのお体よ

人々のため犠牲となりて十字架上でまことの苦しみを受け

貫かれたその脇腹から血と水を流し給いし方よ

我らの臨終の試練をあらかじめ知らせ給え

モーツァルトは熱心なカトリック信者ではなく、フリーメーソンに属していたという。(フリーメイソンーには「自由」、「平等」、「友愛」、「寛容」、「人道」の5つの基本理念がある)そうだ。とはいえあの時代、キリスト教から自由であったわけではなく、イエス・キリストを内面化していたに相違ない。

インターネットってホント便利。昔はこれらのことをわざわざ図書館で調べていたからねえ。

高音に転調したボーイソプラノの清らかさといったら!

湿った雪はイヤだなあ。