東京から2時間、名古屋から2時間半。八ヶ岳中央高原 原村へようこそ!

ペンション グリーングラスでのんびりとした休日はいかがですか?
森の散歩道や、渓流、白樺の林をぬけて薫る高原の風。
あふれる自然に人も犬もきっとリフレッシュできますよ。
長野県諏訪郡原村 中央道諏訪南ICより自動車で約10分
首都圏から一番近い”村”である原村のペンションです。
長野県諏訪郡原村17217-1682






我が家の犬や猫、お客さんの犬、八ヶ岳の自然などについての日記を綴っています。
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大雪の予報から一夜明けて

1 月 23rd, 2018

散歩から戻っても、まだ庭で遊びたいギャビ。

ふんわりとした新雪が気に入ったようだ。

どんな大雪になるかと警戒して色々食料を確保しておいたが、東京より少ない15センチの積雪だった。

雪のあしたは暖かいというけれど、きょうは非常に寒いし珍しく風もあった。

おまけに粉雪も舞っているから散歩していても、いつもよりずっと寒く感ずる。

気温が低く、眼に飛び込んでくる風と雪の中を歩いていると、とても惨めな気分になる。

鼻水を垂らしながらひたすら我慢して歩いていると、そのうち「いい人生とは」とか、「善く生きるとは」とか「老いていつまでも死なない生に意味はあるのか」などという、人間にとって根源的な問いを発しないではいられなくなる。

それは外界によって惹き起された内面である。

このように厳しい自然環境の中に40年もいると、いつしかそこが精神的な拠り所となるから不思議だ。

また私は近頃、幼少期を過ごした場所を辿ってみたくなった。

森有正は、はるかに行くことは還ってくることだと言っている。

だから私は幼少期の自分と、今の自分は同じであることを確認したいのだ。

私の根幹をつくった幼少期の故郷、そしてまたもうひとつの故郷となった今の場所、どちらも精神の拠り所である。

私にとって故郷とは精神の基盤であるだけに、思考のふるさとのことでもある。

従って故郷喪失とは考えることができなくなった状態のことだ。

いつそんな状態になるのだろう。

ヤダ、ボクまだ家には入らない!

新しい靴

1 月 21st, 2018

すり減った底、破れて水が侵入するようになった靴を、もうこれまでと捨てて新調することにした。

犬の散歩用だから、色々と条件が厳しい。

雪や雨にも対応できるように素材はゴアテックスであること、街中を歩くものではなく、山野を跋渉できるように丈夫であること、登山靴のように履いたり脱いだりが面倒でないもの、そして何より私の大きな足に合うものということになる。(女物なんか絶対入らない)

それをひとつずつクリアしていったら、なんと息子が今履いているものと同じになってしまった。(もちろん大きさは全く違う。私の足は28.5センチもない)

今朝は新しい靴を履いて意気揚々と散歩に出た。

底のギザギザがよく雪や氷をグリップするので安心して歩けた。

しかし、それに気をよくして足許にあまり注意を払わないで歩いていたら、見事に滑って転んだ。

仰向けになった私を不思議そうに見下ろすギャビ。

下から見上げるギャビは、以外と大きくて、コドモのような顔をしていた。

あれほどすり減った靴底であっても、そうであるからこそ細心の注意を払って歩いていたので、この冬一度も滑って転んだことはない。

やっぱり油断大敵である。

人間は失敗からしか学べないが、私はこの先何回失敗して新たに学んでいくのだろう。

上手に転んだので頭も打たず、ケガも痛みもなかった。

ボクしらないよ〜。

バードフィーダー

1 月 19th, 2018

バードフィーダーを吊るしたら、野鳥が来るようになった。

座ったきりの生活をしていると、飽きてくるので時々鳥を眺めて楽しんでいる。

よく来るのはアカゲラとスズメ、その他名も知らない小鳥だ。

アオゲラは数が少ないのか、用心深いのか時々しか来ない。

上記のアカゲらの写真はWeb上の画像をコピーしたものでほっそりしているが、ウチにくるアカゲラは丸々と太って大きく、家族みんなで「デブゲラ」と呼んでいる。

初めのうちこそ多種多様な野鳥が来ていたが、「デブゲラ」に駆逐されてしまった。

それでもスズメたちは逞しい。

「デブゲラ」の食事中は遠巻きにして順番を待っているか、下に落ちた餌のクズをついばんだりしている。

アカゲラの親分が満腹して飛び去ると、一斉にスズメたちがバードフィーダーに群がる。

そこから排除されたスズメは、落ちてくるクズ餌を一心不乱に漁る。

人間世界と同じだなあ、と感心しながら眺めている。

いい天気!

1 月 16th, 2018

本棚の奥からエンゲルスの『空想より科学へ』がホコリにまみれて出てきた。

何を隠そう、私はこの本を高校生のとき題名からSFだと思ったほどの無知であった。

その後読んでみて内容が理解できたのかどうか。

ただ本文中で彼の言う「人間の意識がその存在を規定するのではなく、人間の社会的存在がその意識を規定する」という唯物史観に衝撃を受けた。

だから50年も経った今でさえ、ハッキリとおぼえている。

目指す生き方が人それぞれなのは当たり前のことである。

私の場合、社会主義は人として当然関心をもちながら、実社会においてもそれに基づく何らかの行動をしていかなくてはならないと思うのであるが(だって私はプロレタリアートなのだから)私は徹底して個人主義者である。

もっといえば冷たい利己主義者かもしれない。更に言えば怠け者であることがそれに拍車をかける。

だから私は社会主義者としての体質をもっていない。

その後、あれほど衝撃を受けた唯物史観をすっかり忘れ、私は同じ19世紀でも、マルクス、エンゲルスより同世紀の文学、音楽、美術という芸術に惹かれ、唯物論者というより観念論者になっていった。

当時の時代思潮から逃れ、世紀末芸術に惑溺することは私の密やかな楽しみでもあった。

私は、この長い観念論のまどろみの中にいたのであるが、『空想より科学へ』を再読することにより何だか眼が覚めたような気がした。

笑ってしまったのは、カントの「神の存在証明は誰にもできない」という不可知論を、エンゲルスは「弱気の唯物論」として、不可知論は事実上の唯物論であると言っていることだ。

読んでいたらギャビがため息をついた。

ああ、可哀想に!

ということでギャビを連れて散歩に出た。

いい天気で太陽の光が事物を明るく照らし出していた。

私の精神と外界が照応し合っていた。

雪のあした

1 月 13th, 2018

少し雪が降った。

冬はやっぱり雪がある方がいい。

連日マイナス12度の朝が続いている。

ギャビは朝一番に庭でオシッコをするとすぐ帰ってくる。

マイナス5度以下だと散歩している人もいない。

去年から寒暖計オジサンを見なくなった。

いつも寒暖計を首からぶら下げて散歩している、私と同年くらいのオジサンのことだ。

寒い日は「きょうはマイナス15度だよ〜」と嬉しそうに駆け寄って報告してくれた。

何だか寒さを愛し共有し合う同志のような気がしていたものだ。

今年は一度も会っていないからちょっと寂しく、よくないことをあれこれ想像してしまう。

今年から私は、あまり寒い朝は散歩しないようにしている。

健康オタクの隣のおばさんからキツく止められているからだ。

大気まで凍り付くような無機的な外界の美しさは、アンデルセンの『雪の女王』の世界を彷彿とさせる。

私は小学校低学年のころ、子供向けに書かれた『雪の女王』が入門の書で大好きだった。

その後、読解力もついたころ、文庫本で原作の翻訳を読み更に魅せられた。(ディズニーの雪の女王はまるで別物)

私にとっての「女王」とは、この『雪の女王』とロシアの『石の花』の「鉱山の女王」が双璧である。

どちらも無機的で厳しく美しく、有機的な人間のヒロインと対立する。

私は子供のころから、どちらの作品の人間のヒロインには心惹かれなかった。

真の美の象徴はこの両女王であるのだから。

滅びゆく有機的なものは美ではないということか。

そういえば『雪の女王』の中で、男の子カイが女王から課せられた、氷片で作るパズルが最後に出来上がるが、それは「永遠」という文字だった。

マイナス12度以下の『雪の女王』の住処のような雪と氷の世界を歩くことは、私の冬の楽しみでもあった。

でも老いてきたギャビと、同様にトシをとってきた私の体のことを考えると、この楽しみは思い出の中だけにとどめておこう。

最近は気温の上がる11時過ぎに長い散歩に出るようにしている。

それはそれで色んな発見があって楽しい。