2月5日
まだハタチそこそこのバカ学生だった頃、友達の持っていた当時流行りの週刊誌「平凡パンチ」を読んでいたら、ノンポリにも分かるマルクス思想というようなページがあった。(時代だねえ)
人間の意識が彼らの存在を規定するのではなくて、逆に彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。
といった文言に触れ、私は驚天動地とも言えるような衝撃を受けた。
それまでの私は徹底した観念論者主観主義的人間であり、芸術作品も主観の表出だと信じて疑ってなかった。
私が世界、私がソレだと認めて初めて、ものが存在するのだ、というような傲慢でバカな考えに取り憑かれていたのだ。
完全に目が覚めた。
「私」は対象があって初めて存在する、私の「意識」は学校や家庭など社会的存在によって規定されているのだ、ということが解った瞬間だった。
マルクスさまのおかげね、と図書館で『資本論』のページを開いてみた。
辛抱強くページを繰っていったが全く読めなかった。「ニイチャンはよくこんなものを読めたわねえ、地頭の相違ね」、と11歳年上の兄を思い浮かべながらページを閉じた。
それからの私は音楽も美術も文学も思想も、また美術史で使った『聖書』も、好き嫌いだけではなく、歴史的社会的背景を考慮しながら理解していくという態度が身についた。
大嫌いだった戦争高揚絵画やプロレタリアアート、レアリズム絵画も冷静に公平に観ることができ、美点さえ発見できるようになった。
美術教師は「理屈は無用、ただ感じればいい」ということを言っていたが、バカか?
作品を前にして理屈が無用であるのは最初と最後だけ。その間にあるのが長い時間をかけた「読み」なのだ。
これは多くのことに当てはまると思う。
マルクスさまのこの文言は、55年経った今も、私の脳裏にしっかりと刻み込まれている。
たとえ彼が意図したこととは少々ズレているとしても。
アナベルの花が散るでもなくそのまま枯れて残っているけど、時期がくればちゃんと落ちる。
だから私はそのままにして枯れた風情も楽しんでいる。
隣のおばさんは“ただ無精なだけ”というけれど。