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干し柿

1 月 23rd, 2021

幼なじみから干し柿が送られてきた。

彼は去年「コロナウィルスに感染しないよう気をつけろ」という電話をくれた。

その時「ケイコチャンは昔から粗忽だったから心配だ」と言った。

今回も「ケイコチャンは粗忽だからコロナ感染には充分気をつけるように」というメモが入っていた。

ウルサイなあ、と思ったがやっぱり素直に聞いておこうと思い直した。

まだ小学生だった夏休みのある日、私たちはその幼なじみも含めた数人で遊んでいた。

すぐ近くに太い番線が格子状に張りめぐらされている、コンクリート製の防火用水桝があった。

その上に乗って遊ぼうと私が提案したのだが、みんな尻込みした。

そこで私だけが乗ってトランポリンよろしくピョンピョン跳ねていたら、番線が切れてドボンと落ちた。

眼の前を金魚がゆらゆら横切っていったことをハッキリおぼえている。

突然の出来事だったので私は眼をあいたままだったようである。

夢中で浮かび上がったとき私が見たものは、蜘蛛の子を散らすように逃げていく悪童どもだった。

よくウチの柿や桃を盗みにきたけど、見逃してやっていたマサルとタカオは真っ先に逃げていった。

残っていたのは干し柿を送ってくれた彼だけ。

切れた番線につかまりながらアップアップしていた私に、彼は落ち着き払って周辺から長い棒を拾ってきて私に渡してくれた。おかげで命拾いした私。

あとのことは何もおぼえていない。

私の粗忽さ無謀さを示すものは他にも色々あり、中学までずーっと同じクラスだった彼にはほとんどの事が知られている。

だからこのような注意もあろうというもの。

もうすぐ74歳にもなろうというのに、こうして心配してくれる幼なじみがいるということはありがたく貴重だ。

これこそが足許の幸せ?青い鳥?

近頃の私は慎重だよ。

今や真ん中だけが禿げて、中世の修道僧みたいになってしまった彼の頭におもいを馳せながら干し柿を食べる。うまい!

さしずめ私はこの干し柿か?

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1月19日きょうも晴れ

1 月 19th, 2021

本の整理をしていたらかつての愛読書、プラトンの『パイドロス』が出てきた。もちろんこの本は処分の対象にはならない。

パラパラとめくっていたら「恋という狂気こそは、まさにこよなき幸いのために神々から授けられる」という文言が眼にとまった。

恋とは全く無縁になってしまった私に、なぜこんな箇所が眼につくのだろう、いかに死ぬべきか、ということこそ今の私には相応しいのに、と思いながらちょいと読んでみる。

そしてすっかり忘れていた若いころの恋愛経験が思い出された。

その頃出会った“古代ギリシアもの”の本の中に、今でもハッキリと覚えているものが二つある。

ひとつは“智恵は勇気に勝り理論は実践を導く”という、いかにも行動嫌いの私に合致したものと、もうひとつは、“エロスは外から襲いかかってくる災難である”というものである。

まさに狂わされてしまうということだ。これほど「理性」というものの虚しさを示すものもあるまい。

ひとつの事例としてのある恋。その恋愛には大きな倫理的不安要因があり、親にも周囲からも反対されている。

そうであっても突き進んでしまうという決断は、果たして個人の自由と呼べるものであろうか。

まあ、恋は狂気なのだから仕方がない、その病が癒されるのがいいのか悪いのかどっちともいえないなあ。でも夢は必ず醒める。と年寄りは言っておこう。

一方『パイドロス』では恋愛においてこそ人は自己の最良の部分を示し得る、といったようなことも言っている。

かつて憎からず思っていた理学部の優秀な男子学生が「ボクたちはキリスト教について何も知らない。世界の(今思えばヨーロッパの)文明文化はみんなキリスト教を核にして発展してきたものだ。だからボクたちはキリスト教について知る義務がある」と一杯50円の不味いたぬきうどんをすすりながら熱く語った。

その時の私の衝撃!胸にグサッとナイフを突きつけられたような思いがした。

私もそのことに薄々気付いていて、マズイなあと思っていたが、その頃の私の関心は古代ギリシアに集中していた。

それからの私は彼に気に入られたい一心で、キリスト教について“信仰の外から”熱心に勉強したのである。

おかげで今、私が哲学、美術、音楽、文学で楽しく遊べるのは、キリスト教の知識があるからだと思う。

まさに恋愛において私の最良の部分が引き出されたということだ。

その理学部の彼?言うだけ言ってあとは数式のほうに関心が移ってしまったらしい。

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1月16日

1 月 16th, 2021

(ニイちゃんと妹)

きょうは土曜日だから孫がいる。

朝ごはんを作って食べさせ、昼ご飯もイヤイヤ作って二人で食べていると、彼女が「おばあちゃん、ちょっと早いんだけど聞いておくね」と、あらたまって言う。

もう遺産についての遺言かあ?と思いながら「ナ、ナニよ」と横目で孫を見ながらレンコンを口に運ぶ。

すると「きょうのオヤツはなあに?」ときたもんだ。

学校から帰るとすぐオヤツの催促、土日はゲーム機を止めて3時きっかりに「オヤツ〜」と言ってあらわれる。

だから私はコーヒーやお茶を買い忘れても、オヤツの準備だけはしておかなければならない。

買い忘れたりすると大変だ、クレープを作ったりパンケーキを焼いたりすることになる。

貴重な私の時間をそんなことで潰したくはないのだ。

昼食後、3日分の食料と彼女のオヤツを買ってきた。

「きょうのオヤツは3択だよ〜」といって選ばせる。

たい焼き、マシュマロ、チョコレートからひとつだけ渡す。

明日は2択、あさっては残りひとつというわけだ。

案外ボケなくてすむかもしれない。

気温が高かったので雨になり、先日降った雪はほとんど溶けてしまった。

まるできょうだい。

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山奥ニート

1 月 15th, 2021

今朝のNHKニュースで「山奥ニート」という特集をやっていた。

都会で心身ともに疲弊した若者が、限界集落の空家をタダで貸してもらい、そこをシェアハウスにしているのだという。

このコロナ禍で入居希望者が増えてきて、もう空室はないそうだ。

そういえばウチも山奥ニートみたいなものだなあ、と思う。

彼ら山奥ニートたちは定職には就かず、アルバイトや手伝いで最低限の生活費を稼いでいるのだとか。

ウチとよく似ているなあ。

当方は、たま〜に来て下さるお客さんからの宿泊費と(まるでアンコウみたい)大人3人が少ない収入を出し合って生活を賄っている。

多分山奥ニートと一緒で、私が得られる最大の果実は自分だけの時間であろう。

その時間の使い方が能動的でないと、倦怠と怠惰に呑み込まれてしまう。

私が唯一街に出る松本での勉強会も今のところ中止となっているが、パソコンメールで長々とやり取りをしている。

かえって深く勉強できるくらいである。

きのう買い物帰りに、たまには図書館で勉強しようと思い原村図書館に立ち寄った。

なんとここではインターネットはおろかパソコンの電源も使わせてくれぬという。

仕方がないので富士見町の納税者には悪いが、富士見の図書館に行くことにした。

声高に文句を言ってもしょうがない、ダメなら他を当たるだけ、という私の消極性はここにも表れた。

あとは死ぬだけだもんね。

と思いながら「いや、待てよ」と考え直した。

後に続く若者はどうなるのだろう。

富士見町図書館にも、茅野市図書館にも、諏訪市図書館にも個人勉強用のブースがたくさんあり、土日ともなるといつも若者がノートパソコンを持ち込んで勉強している。

環境を与えられない原村の若者は、私と同じようにどんどん消極的になり、学力も落ちていくに違いない。

原村は老人医療費が無料だといっても、子どもの将来を見据えた文化政策に予算を使わぬ限り村の未来はない。

私は老人もちゃんと医療費は払うべきだと考える者である。

だから医療費の申請はほとんどしていない。

いくら素晴らしい自然があり、美しい村を標榜しようと、このように文化果つるところでは人も呼べない。

手つかずの自然といってもそのままでは荒野に過ぎない。

というわけで、この消極的な私が図書館をどう考えているのかを、村長にメールした。

カアチャン、いらんことを・・・・・・・

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雪のあした

1 月 13th, 2021

きのう雪が降った。

本格的な雪は今冬はじめてだった。

それでも20センチ程度。

寒冷地に住んでいる身にとって、全く雪がないということは寂しい。

枯れ野の広がる風景は寒々として心まで冷えてくる。

でも豪雪地帯に暮す人はそんなことを言っていられないだろうなあ、と察する。

北信の飯山では85歳のおばあさんでも雪かきをするそうだ。

風邪の治りかけで(コロナではない!)調子が悪かった私は雪かきができなかった。

ヨメゴのおチエと孫がこの作業をしてくれた。

孫はゲームばかりをしているのではない。

洗濯物を干したり食器洗いをしたり結構役に立っている。

彼女のノビノビとした姿態と、自然に労働を受入れる態度を見ていると、やっぱり未来は若者にあることを痛感する。

若者は未来を託すに値する。

やはり老人は引退するべきだと思う。

定年制は当たり前のことであるが、政治の世界はどうだろう。

中枢にいるのはジイさんばかりである。老害とはよくいったものである。

年寄りの私が言っている。

政治家にも定年制を取り入れてもらいたいものだ。

ボクはもうとっくに引退したよ。

でもとくに不満はないよ。

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