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大泉山登山

3 月 23rd, 2019

午後の散歩を兼ねて、退屈しているギャビと孫を連れ、ここからクルマで7分の大泉山に出掛けた。

吊り橋を渡ったらすぐ登山口。

ここは私のもうひとつの庭みたいなものだ。

今年は雪が降らなかったせいか川の水も少なくて驚いた。

でもその分普段は気づかなかった岩の重なりがよく見えて面白かった。

ものの成り立ちを知ると、少しはリコウになった気がする。

小学生の孫とギャビは走るように登って行くけど、70過ぎの私は当然彼らには追いつけない。

でもギャビは途中私をじっと待っている。

私がちゃんと登ってくるのを確かめると、ギャビはまた登って行く。

花粉症の私が洟をかんだり、靴の紐を結び直したりして遅れると、ギャビはわざわざ下りて来て、私がいることを確認するとまた登って行く。

この行動は、かつて低山をヨチヨチ登ってくる3歳の孫にしていたことと同じである。

当時私はそんなギャビがたまらなく誇らしく愛おしく、抱きしめてやりたくなったっけ。

ギャビはもちろん迷惑だろうけど。

そのときの彼は、子分を守る!という使命感でいっぱいだったのだろう。

頂上で満足そうなギャビ。

この時ばかりはカメラを向けても、いつものようにプイと横を向くこともなく、じっとこちらを見てくれた。

かつては守ってやったネエチャンの手のひらから、水をもらって嬉しそうにしているギャビはコドモのようだった。

もう老犬だけど、まだまだ山登りは当分できそうだ。

私がいつまで続くことやら。

しかしである。

エアロバイクを熱心にやっているせいか、太ももとふくらはぎに筋肉が付き、体重は1キロ半増えた。

増えた分は間違っても脂肪ではないことを信じている。

そのせいであろう、上り山道も苦ではなく、急坂の下りもぐっと踏ん張ることができる手応えを感じた。

老人は上りより下りの方が難儀だそうだ。事実私もそうだった。

生まれて初めて宣言しよう!

“運動っていいなあ”

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3月の塩山詣で

3 月 22nd, 2019

私は月一回山梨県塩山の老人施設に、先生の奥さんと一緒に恩師を訪ねている。

なんでも忘れてしまう先生。

今月も「キミに会うのは何年振りだろう」と大歓迎してくれた先生。

色々話すうち、先生が大学で教えていた後、文学館の館長をされていたことを話したが「そんなことはおぼえていない」そうだ。

前回「ボクには孫はいないんだよ」とおっしゃっていたが、今回は「ボクには子供がいないんだ」とおっしゃる。

奥さんが「息子二人孫二人がいるでしょ」と諭すように言い聞かせるが首を傾げるばかり。

そのうち「だれか哲学者のことばを聞かせてよ」とおっしゃる。

そこで私が「ショーペンハウアーは、”人生とは死ぬまでの猶予期間、そして人間のあらゆる行為は死ぬまでの暇つぶし”と言っています」と申し上げた。

すると「アッハハ!いいなあ、ボクにはもう暇つぶしのタネがないよ」と明るくおっしゃった。

これだから塩山詣ではやめられない。

奥さんが「次に来るときは何が欲しい?」とお尋ねになると「鮨が喰いたい」と。

「生ものを持ってきてはいけない規則なの。だから卵焼きにしましょうね」と彼女が優しく言う。

先生は「ふ〜ん、君は最近鮨を食べたかい?」と奥さんにお尋ねになる。

「そんな高いものは頂いてませんよ」と奥さん。

楽しく3時間ほどおやつを食べたりお喋りしたが、施設の夕食時間となったのでおいとました。

それから私たちは甲府の安くて美味しい鮨屋でたらふく食べて、奥さんを駅に送った。

こんな時もあったなあ。

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無題

3 月 18th, 2019

日々を無為に過ごしている。

雪が消えると同時にお客さんが来てくれるようになる。

それまでは春休み中の孫と一緒に日々三食食べ、最低限の家事をして過ごしている。

私が成人してこのかた、体験に体験を積んできたこういう生活であるが、それが何になるというのだろう。

森有正は「体験を経験に止揚し、それを未来にひらかれたものにしていかなくてはならない」といったような意味のことを言っている。

しかしこんな食べて寝て洗濯して犬の散歩をしてなんていうことが、人類の普遍に包摂されるような経験に止揚されるのだろうか、と自虐的になる。

とはいえ、私は自分が何をするために生まれてきたのかを問うことの無意味さは、骨の髄まで理解しているつもりである。

虚しい。

ああ私は自分を足許で肯定できる何かを得たい。

友人がルノワールの『イレーヌ』の絵はがきを送ってくれた。

友人は印象派の、特にルノワールが好きなのだそうだ。

絵画史上最強の美少女といわれているこの『イレーヌ』。

イレーヌはパリの裕福なユダヤ人銀行家の家に生まれ、その後やはりユダヤ人銀行家と政略結婚をさせられる。

二人の子供を得るものの夫の浮気によって離婚。

その後自分と子供が生きていくために、イタリアの没落貴族と政略結婚するが、これまた夫の浮気により破綻。

そして息子は第一次世界大戦で戦死し、ルノワールが絵に残している二人の妹と娘孫は、ナチスによってアウシュビッツで殺される。

イレーヌはイタリア人と結婚してカトリックに改宗し、名前もイタリア風に改名していたため、ナチスから逃れることができたそうである。

イレーヌの徹底した受け身の人生が、彼女を90過ぎまで生き長らえさせたということか。

そんなことを思いながら美少女『イレーヌ』を観ると、なんとなく彼女のその後の人生を予感させるような、憂いを含んだ表情であるような気がしてくる。

絵を見る楽しみは、そんなことを辿りながら観ていくと、人間の哀しみが浮き彫りにされ、味わい深いものになっていくようである。

「さて、散歩にでも行くかあ〜」

言葉を口にすると行為を誘発するなあ。

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三月の雪

3 月 13th, 2019

平地にはそろそろ桜が咲くというのに、ここには春の雪が降りしきる。

エアロバイクのペダルをゆっくり踏みながら、大好きな室生犀星の詩『三月』を反芻している。

うすければ青くぎんいろに
さくらも紅く咲くなみに
三月こな雪ふりしきる

雪かきよせて手にとれば
手にとるひまに消えにけり
なにを哀しと言ひうるものぞ

君が朱なるてぶくろに
雪もうすらにとけゆけり

この詩は、儚く消えゆくものの美しさを謳い上げた詩である。

こな雪に託して、命あるもの全てを指しているのではないか。

私たちは生きてきた過程で様々な体験をしてきたけれど、その本質は哀しみである。

その哀しみを、私は季節外れの三月のこな雪に重ねる。

いのちの儚さは手でかき集め、語ろうとしても瞬く間に消えてゆく。

それが“うすければあおく銀色に”ということばにあらわされている。

青は悲しみの色であり銀は鈍い光の反射のこと。

“君が朱なるてぶくろに雪もうすらにとけゆけり”

朱と白の見事な対比。

今私は生命の火(朱)を細々と燃やしているけれど、その私の中に失われていったいのちが溶け込んでいる。

それを私は愛おしむ。

逝ってしまった歴代の犬や猫、両親、兄、友人たち。

そして尊敬する内外の人々。(ま、私の場合何人かの哲学者、文学者、芸術家、歴史家、科学者だけどね)

「アタシ久々にシャンプーしてもらって若返ったわ。身も心もよ」テス。

ボクはいつだって退屈。

喜びは一瞬だけ。

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モモちゃん

3 月 12th, 2019

モモちゃんは11歳の女の子です。

穏やかで優しくカワイイ犬です。

美形です。

鳴き声ひとつ立てません。

撫でても触ってもされるがままのモモちゃん。

ところが、カメラを向けたら絶妙のタイミングで右を向きました。

やっと正面をむいてくれたので、またカメラを向けたらヒョイと澄ました顔をして左を向きました。

無言の抵抗というわけです。

ちゃんと自己をもったモモちゃんでした。

いかにも柴犬ですね。

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