あっという間に5月も終わり、早6月も7日。

6月の花、シベリアあやめが咲き始めた。
名前の通りこの花は寒冷地で咲いてこそ美しい。
冬マイナス16度以下になるこの地では、植物にとって制約が多く、本来の性を存分に発揮できる種はそう多くない。
しかしこのシベリアあやめは全く寒さの影響を受けないどころか、寒さを受けた分、花の美しさ紫の濃さが際立つ。
村中にもあるが、標高が下がるにつれその美しさは減じていく。
この完璧な美しさを写真は捉えることができない。なぜなら本質にフォーカスできないからだ。
画家がこれを作品にするには、この対象を表面的に再現するのではなく、徹底的に観察し抽象化し、自己の精神がシベリアあやめから受け取る真髄を描き出さなければならない。
芸術の才能は技術によっても美学によっても努力によっても発展するものではない。
生まれ持った天性の才能である。
私も含め多くの人の努力は無駄だったというわけだ。
カントは『判断力批判』の中で、初め「自然美」を「芸術美」より上位に置いた。
しかし筆を進めるうち双方を等価とした。当然だ。
理性的認識に対して感性的認識にも固有の論理を認めつつあった、ということだろう。
私は毎年この花に会えるのを楽しみに生きている。

もうすぐ17歳になるギャビはこちらの心配をよそに、まだまだ元気だ。
「ギャビちゃん一緒に老いようね」なんて言っていた私の方が先を進んでいる。
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大好きな西洋菩提樹の芽吹きが美しい。
ドイツ語のリンデンバウムという木だ。
夏これが素晴らしい木陰を作る。
この下に集う若いファミリーの姿はいつ見ても心が和む。
そしてシューベルトの『冬の旅』を想う。
失恋した若者の物語であるが、作者のミューラーは二流の詩人であったそうだ。
シューベルトがこれに曲をつけなかったら、歴史にも残らなかっただろうと言われている。
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市門のはずれ、噴泉のほとりに
立つはぼだい樹
しげる木陰に
甘い夢をいくど見たことだろう
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詩人は心に浮かぶイメージを、他には置きかえることのできない言葉に刻む。
これぞ厳密性の極地。
詩は作れるけど長い文章はダメ、という人がいるけど何も分かっていない人。
詩がつくれる人は散文などお手のもの。
詩、これほど難しいものはない。
音楽家はイメージを音符にかえて表現する。
私たちは、表現された言葉のつらなり、音の構造からしか、芸術家の心のイメージの原型に近づくことはできない。
しかしまた、音符の集積、言葉のつらなりをいくら計算し分析しても、私たちの側に作者のイメージと等しいイメージを再構築する能力、と言わないまでも可能性を持っていなければ、芸術を芸術として感得することはできない。
『ゲーテとエッカーマンの対話』の中で、ゲーテが「自分も太陽のように輝いていなければ、眼は、太陽の光を見ることができない 」と言ったとおりである。
どれ、私もシューベルトとミューラーにできるだけ近づけるように「ヘルマン・プライ」の「菩提樹」を聴こう。

夜の散歩から帰ってきたところ。
利休梅が満開。
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シヴァちゃん。
最初にきてくれた時は、階段も上がらず非常に警戒していましたが、2回目からはすっかり慣れ、自分の泊まった部屋もちゃんと覚えていて「アタシここに泊まるのよ、早く開けてよ」とでもいうように尻尾をブンブン振ってくれました。
今回撮った写真はマズかったなあ。
せっかくの美貌が台無しだねえ。
というわけで前回のうまく撮れたものを再登場させます。

どう?アタシキレイでしょ!

5月15日の私の誕生日に友人が贈ってくれたケーキ。
最近甘いものは控えているけど、誕生日ケーキだけは別ね。
ウチの者達も誰ひとりとして遠慮しない。
切り分けたらジャンケンで勝った者が、欲しいピースを選ぶ権利がある。
一年中“ダイエットをしている”という隣のおばさんなど、そんなことは全く忘れたかのように、大きいピースを選ぶ。
そろそろ5月も終わり。楽しかったなあ。
6月もいい月にしていこう。
楽天主義は“意思”のものだからね。
悲観主義?それはワガママ、エゴというものさ。
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薔薇が好きな、隣のおばさんのたっての希望で「ハイジの村」へ行ってきた。
当方からクルマで1時間、山梨県明野町にあるこの施設は、いつも季節の花が咲いているがなんといっても今は薔薇。
ここにはありとあらゆる薔薇が咲いている。
今が真っ盛りのちょうどいい季節だった。
ヨメゴのおチエも加わって、3人で色々な薔薇の香りを嗅ぎながら歩いた。
出かけたとき、写真を撮るのはいつもおチエ。
若いセンスで上手に撮る。
いくら“すがたかたち”が良くても香りのない薔薇はつまらないなあ。

薔薇のトンネルもいいけど、花はみんな外に向かって咲いているから内側にはあまり花がない。
名札を見ながら歩くのも楽しい。
「ラプソディ・イン・ブルー」とか「ブラスバンド」、「モーツァルト」、「ポール・マッカートニー」なんて音楽が聴こえてきそうな薔薇もあった。

さんざん歩いて疲れたのでベンチで休んだ。
真上には野ばらの屋根。
やっぱり一番いい香りは野ばらだと思った。
ほとんどの薔薇の台木は、この日本のノイバラだそうだ。
当方にも自然に生えてきた野ばらがあるが、それは素晴らしい香りである。

おチエが「パンセ」という名前の薔薇を撮った。
『パンセ』はパスカルが自分の書籍の出版に向けて、その準備段階で、思いついた事を書き留めた数多くの断片的な記述である。
それを彼の死後に遺族が編纂し刊行した遺著である。
それにしてもパンセの意味する「思考」とか「思想」には似つかわしくない艶やかな薔薇だ。
パスカルは、台風の時の“ヘクトパスカル”からもわかるように科学者であり思想家でありクリスチャンでもある。
パンセの中にある私の好きな言葉。
「理性の最後の歩みは、理性を超えるものが無限にあるということを認めることにある。それを知るところまでいかなければ、理性は弱いものでしかない」
もちろんこれは限界までの理性の努力を前提としていることであるが。
理性は自らの限界を認め、限界を超える領域については心情に委ねるということであろう。
パスカルは心情の思想家とも言われる。
より深く学び知ることによって理性が納得し、心情が同意したとき、はじめてそれは深い信仰となりうるということだろう。
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ダイエットを始めて1ヶ月と3日経った。
無理なく2・8キロ痩せたが非常に疲れやすくなった。
腹回りだけが痩せればいいのだが、そうはいかない。
全体的に脂肪も筋肉も水分も減る。
なぜトシを取ったらダイエットをしてはならないかということがよく分かった。
若い人ならともかく、年寄りは減った筋肉を取り戻すのが容易ではないからだ。
筋肉を減らさないためには、脂肪はくっつけたままでも仕方がないということだ。
私のBMIは23.14だから標準であるが、最も死亡リスクの低い小太りのBMIは25である。だからなにも痩せる必要はないと考えた。
それよりも筋肉の減るのが一番怖い。
減った筋肉を取り戻すために運動しろってことね。
手持ちの服が入らなくなったらユニクロのXLを買えばいいや。

この季節、テーブルに飾る花は道端や庭からいくらでも調達できる。
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