10月13日
最近鬱々とした気分にとらわれている。
頭にモヤがかかったような状態で、何をする気にもなれない。
別に悩み事があるとか体調不良といったことではない。
何もないから困るのである。
行きつけの接骨院で「ビーナスラインを美ヶ原方面に走っていくと、三峰山という木1本生えていない笹だけの山があるよ。見晴らしが良くて往復1時間ちょっとで登ってこられるよ」ということを教わった。
モヤのかかっていた頭がいきなり晴れた。
私は施療が終わるとすぐそこに直行した。
大抵の行為は見送るけれど、反射的に即断即決することがごくまれにある。
それが“これ”だった
いつだって私は山に行くような格好をしているし、トレッキング用の靴と雨具はクルマの中にある。
原村から目的地までは1時間弱で着いた。
この先になだらかな三つの峰が続いている。
ゆっくりゆっくり登って行くと、私と同年くらいのジイさんが下りてきた。
寂しい老人なのか、いつまでも話しかけられて困った。
旅や登山は独りで行動すると寂しさは先鋭化するけれど、本来の自分を取り戻すため、あるいは本当の自己とは何かということの確認のためには絶対必要だと、私は思っている。
もちろん元々の自分なんて空っぽ、本来の自分なんてないということは重々解っている。
しかし長年生きてきて、私という器には数々の記憶が蓄積されている。
ほとんどのものは沈澱しているけれど、過去から現在までの間に鮮明に残っているものがある。
それらを統合していくと、私というものが浮かび上がってくるような気がする。
そんな自分を全面的には肯定はできなかったけれど、所詮自分はこの程度、まずまずの来し方だったと納得するに充分だった。
これで私の頭の中の霧はキレイに晴れた。
やっぱり人間は行為してナンボよね。
“ファウスト”だって聖書の「はじめに言葉があった」というところを「はじめに行為があった」と言い直しているもんね。
それにしてもこの美しい景観!信州はいいところだと心から思った。
下りてきて、駐車場にある三峰茶屋で「くるみ味噌田楽」を食べた。
旨かったので近日中に再現して家族に食べさせようと思った。これも本来の自分かなあ・・・。
この山は年寄りの山散歩には最適な所だと思った。
“運悪く”長生きしてしまったら家族に迷惑かけるなあ、なんて殊勝なことを私は考えるから、なるべく足腰は鍛えて自立した生活を送りたいと思っている。
今朝、食事のとき息子に「私のカップにコーヒーを注いで頂戴。ああそれからそこのチーズもとってね」と頼んだ。
すると彼は「なんだよ!もうオレは介護するのかい?」と言われた。