1月23日月曜日
マイナス11℃、朝6時の散歩
老犬、老人揃って元気だねえ。
プーチンのウクライナ侵攻が始まった時、デッサンの先生でもある友人から「この事態に哲学は何の役に立つのか」という痛いメールをもらった。
この混迷の世界に比べたら、コロナの蔓延などものの数ではないと私は思っている。
かつて啓蒙の時代を経て人類は確実に良い方向に向かっている、なんて思っていた私は大バカだった。
「人権」という概念などヨーロッパのごく限られた地域の、限られた階層から出たことで、地球規模で見たら大昔から人類はちっとも進歩していない。
この世の不条理に対して哲学は無力である。
理性と知性と民主主義の弱さを、骨の髄まで知らされる出来事が世界には満ちあふれている。
哲学は過ぎ去った時代精神を、後から概念に取りまとめ、それを人に眼に見える形で示すことしかできないということだ。
プラトンが『国家』を書いたのは、ペロポネソス戦争敗戦後、まさにソクラテスの刑死をもってひとつの時代が終わった後のことだった。
プラトンが社会を良くするためには「哲人政治」しかないと、血を吐くような思いで書いた『国家』、2500年以上も経った今、人間はちっとも変わっていないことにある種感動さえ覚える。
哲学は本当に無力だ。社会の周縁部でひっそりと生きる時には役に立つかもしれない。
つまり個人の生活に没頭するときだけと言い換えてもよい。
エピクロスや荘子のいう「隠れて生きよ」ということである。
コロナ以前、自分は世の中にどのように位置付けられてるのかという認識と、私はどう生きるのか、という人生観が交わったところから哲学が始まると思っていた。
哲学こそが自分を成長させるとも。
そして、自分は文学には惑溺してしまい勉強の妨げになるからと、小説は読まないようにしていた。
しかし、充分な暇を与えられたコロナ禍で『ペスト』を再読し、ドストエフスキー、シェンケーヴィッチ、ラーゲルクヴィスト、モーパッサン、ユゴーなど近現代の小説を再読していると、私を変える力は哲学より文学にあると思うようになった。
文学は情念を激しく揺さぶられるものであるだけに、行為を促すような人格を作る働きがあると思ったのだ。
つまりアクションを起こせる人間になれると。
しかし哲学には不思議な力がある。
昔の私は消費大好きで、物欲の塊のような人間だった。
でも哲学を勉強しているうちに消費欲が失せ、最低限必要なものしか欲しいと思わなくなった。
数多の哲学者が語る「足るを知る」ということが骨身に染みて分かったのである。過剰は苦痛でしかないということを。
そして何かを選択しなければならないという事態に陥った時、哲学の勉強によって涵養され、自己の内に培われた判断基準によって、誤りの少ない選択ができるようになるのではないかと思っている。
特に死を考えるようになったこの年齢になると。
つまり倫理的に生きることが可能になるということである。
「哲学は死の演習である」ソクラテスのこの言葉は、若い時から私の座右の銘でもある。
エリートコスを歩み、社会でどれだけ出世しても晩節を汚すような人が世間にはたくさんいる。
特に政治家、経済人に多い。
公文書改竄を命令した元財務省の佐川なんていい例だ。
彼は死に臨んで何を思うのだろう。
実際、間接的にではあるが私の知る人に、東大法学部→弁護士→倒産した出版社の破産管財人→暴力団と絡んで投資詐欺→刑務所→出所後まもなく死亡、という絵に描いたような転落人生を送った人がいる。
たくさん金を儲けた人で、愛人も二人いた。
彼が刻苦勉励の末に手に入れた、金で買えるとされる幸福というか快楽は、苦痛と表裏のものだったのではないか。
人を踏みとどまらせるものは何だろうと改めて思った。
社会に出て、自分で金を稼いで生きていけるようになった時、あるいは晩年にさしかかった時にこそ先人たちが遺してくれた偉大な書物が必要になってくるのではないだろうか。
優れた文学作品や哲学書を読むこと、あるいは再読を薦めたいと思う。
自身の体験を読書に絡めながら過去を反芻し、「真の経験」と成すことで、生きる指針を得られると思うからだ。
哲学から得られる幸福はごく消極的なものだと思うが、でも人間にとって一番大事なものであると私は確信してる。
寒かったねえ。朝ごはん、朝ごはん。