3月31日
孫が母親の実家である奈良に行ってきた。
奈良公園で鹿の子供に鹿煎餅を与えている。
それを持ち帰りギャビにも食べさせた。
ネエチャンから大喜びでもらうギャビ。
知人が「自分史」を書いているという。
今78歳だから80歳までには書き上げたいのだそうだ。
その意義は過去の整理でもあるし、自分がどう生きたかということを子供や孫に伝えたいのだという。
私にも書くようにとその人は勧める。
私は嫌だね。
過去は常に回想する人にとって都合よく整理されたり、塗り替えられたりするからだ。
過去にしでかした醜悪な所業など書けるのかねえ。
流行り言葉の“黒歴史”には蓋をするということか?
人はその行為を弁明しようとしたり、書き換えたりする瞬間に、人としての誇りを失う。
そんな欺瞞は精神の退行以外の何ものでもない。
読者を子供や孫に於いているのであれば尚更であり、その時点で誠実であることから離れる。
誰でもそうであるように、私はこの世に理不尽にも投げ出されて75年経った。
冷静に今の自分の気持ちを表明すれば、それでも親を恨んだり感謝したりすることもなく、まあまあ両親は親の責任を果たしたなあ、くらいに思っている。
もちろん愛着はある。
親との関係を相対化するたびに私は自由を獲得し、大人になっていくことを感じる。今もそうだ。
そして親と子は根源的な他者であるということを、年齢を重ねるたびに思う。自分の子供に対してもそうである。
なぜならそのことはエゴの滅却だから。
それを認めてはじめて、他者に対する優しさも寛容さも出てくるように思う。
自分史ねえ、私の場合、自分の生きた歴史は自分だけのものにとどめておくのが良い。
それでも綻びから時々漏れ出すけどね。そのくらいがちょうどいい。
高知の田舎に移住して、半自給自足を営んでいる友人夫妻は、時々子供達に宛てて自分たちの近況を写真とメールで伝えている。
客観的な写真とともに、「今」の記録としてあるからいいのだ。
子供たちはちゃんと返信しているのかなあ?
しなくてもいいけどね。
双方が見つめ合っている。
どちらも文句なく可愛い。