東京から2時間、名古屋から2時間半。八ヶ岳中央高原 原村へようこそ!

ペンション グリーングラスでのんびりとした休日はいかがですか?
森の散歩道や、渓流、白樺の林をぬけて薫る高原の風。
あふれる自然に人も犬もきっとリフレッシュできますよ。
長野県諏訪郡原村 中央道諏訪南ICより自動車で約10分
首都圏から一番近い”村”である原村のペンションです。
長野県諏訪郡原村17217-1682






我が家の犬や猫、お客さんの犬、八ヶ岳の自然などについての日記を綴っています。
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老人たちのおしゃべり

2 月 6th, 2018

氷の上に雪のベール。

こんな道が一番怖い。

でも滑らないように歩ける場所を見極めて、慎重に歩を進める。

私の性癖である、ボンヤリ考え事をしながら歩くなんていうことは決してない。

きのう松本から友人が4人来た。

60代1人、70代2人、80代1人の4人である。

「原村サミット」と称して2ヶ月に一回くらいここに集まる。

サミットといっても何か会議をするわけではないが、ちょっとした議題はある。

要は集まって食べてお喋りするだけであるが、人の楽しみの基本はこれに尽きるのではないかと思う。

81歳の人と74歳の人は、共に大動脈解離と脳梗塞という生死の境をさまようような病気をして生還した人だ。

クリスチャンでもある81歳の彼女は手術に際して薄れゆく意識の中で、イエス・キリストのことも、夫のことも子供のことも意識にのぼらなかったそうだ。

ただひとつ、台所を片付けておかなかったことが悔やまれたという。

また74歳の脳梗塞で倒れた彼女は、医療は別として死なないためには自分が頑張るしかなかった、気持ちを強くもって自力でトコトン頑張って助かったと思うと言った。

最後まで意識の中には神や仏、また亡くなった夫や両親、あるいは同居の子供のことなど全く出てこなかったそうだ。

浄土真宗では自力を厳しく諌め、阿弥陀如来におすがりする「他力」の心境にならないと救われないというが、そんなことをしていたら私は死んでいたと思う、と語った。

私たちは「パンセの会」という哲学的、宗教的、美学的なものを、テキストを中心に勉強する会の仲間である。

こういった観念論的アソビに日頃から親しんでいても、いざとなると唯物論的になるのだなあ、と私は思った。

神の観念は人間がつくりだした概念にすぎないし、また哲学者は「認識」という快楽を味わい追い求めている人種ではないか、ということを私たちは結論づけた。

とはいえ、私たちはこの会をやめるつもりはサラサラない。

文化園の駐車場。

2月1日に降った雪がまだ溶けずに積み上げられている。

なかなか美しいではないか。

今朝もマイナス13度と寒かった。

この痛いほどの寒気の中にいても、私は“春が待ち遠しい”とはツユほども思わなかった。

正午、もう降ってきた雪

2 月 1st, 2018

きょうは雪が降るというので早めに買い物、散歩を済ませた。

原村の農協で地場産のほうれん草を買ってきた。

ビニールハウスで育てられているものだが、肉厚で甘みがありとても美味しい。

しかもこの量で税込み194円と安い。だからたくさん買い込んできた。

野菜の高いこの時期には、地元産のほうれん草を色々飽きないように工夫して食べている。

家事は生きていく上で誰でもしなければならない雑事である。

その家事の優先順位を洗濯か掃除か、という判断をしなければならない場合、私にとってはこの二つはどうでもいい。

最優先にしなければならないのは、食事作りである。

子供のときから「命(めい)は食にあり」、ということを祖父と母から叩き込まれてきた。

とはいえ、果てしなく続く家事の繰り返しからは、いくら自覚的に生きたとしても生の喜びは発見できない。

時の浪費とはこのようなことをいうのかなあ、とジャガイモの皮を剥きながら思ってしまう。

何億もカネがあったら、腕の良い料理人と掃除や洗濯をしてくれる人を雇いたい。

それ以外は家もクルマも着るものも今のままでいい。

このトシになると物欲なんてどんどんなくなるし、持ったらその後の維持管理が煩雑になるだけだ。

そんなことを降る雪を眺めながら考えていたら、いっそのこと老人ホームに入ってしまえばいいのではないか、ということに思い至った。

しかし一方で、あと何年生きられるか分らないけど、家事を全くしないということは、自分の生を他者に明け渡してしまうことにもなるのだなあ、と思えて寂しくなる。

退職して家事を妻任せにしている世の男諸君、君たちの生殺与奪権は今や妻に握られているのだよ。

自分の収入と家事能力の二つは、フェミニズム思想など持ち出さなくとも、単純に人間に必要欠くべかざるものである、ということを今更のように思う。

ボク、カアチャンに捨てられたら生きていけない。

マイナス10度の朝に

1 月 28th, 2018

コタツにもぐることをおぼえたギャビ。

それほど寒い日が続いていた。

今朝の気温はマイナス10度だったが、私は暖かいと感じた。

と同時に暖かいと思う自分が怖かった。

なぜなら連日マイナス15度〜16度の日々が続き、骨の随まで寒さに慣らされてしまったからだ。

感覚は認識に至る入口ではあるけれど、こんなことがあると感覚なんてアテにならないわい、と思ってしまう。

このように我々は感覚だけに頼っていると、いとも簡単に騙されてしまうのだ。

それが煽動という情動的なものに訴えられると、思想信条までが歪められてしまう。

今やくずかごに捨てられそうになっている理性、知性こそが、これに歯止めをかけるものではないだろうか。

社会に蔓延する反知性主義、こんなことでいいのか!

隣のおばさんがクルマを新しくした。

衝突回避装置も付いているし、雪道や悪路では自動的に4輪駆動になるというヤツだ。

その上お掃除ロボットも買ったので、こうしてノンキにギャビを撫でていられるというものだ。

AIによるロボットが人間の単純作業や力仕事をかわりにやってくれるという。

では人間は何をすればよいのか。

企業は労働者に創造的人間を求めてくるのだ。

かつては単純作業で人間疎外に陥っていた労働者が、能力以上の創造性を要求されてまた疎外されていくのね。

大雪の予報から一夜明けて

1 月 23rd, 2018

散歩から戻っても、まだ庭で遊びたいギャビ。

ふんわりとした新雪が気に入ったようだ。

どんな大雪になるかと警戒して色々食料を確保しておいたが、東京より少ない15センチの積雪だった。

雪のあしたは暖かいというけれど、きょうは非常に寒いし珍しく風もあった。

おまけに粉雪も舞っているから散歩していても、いつもよりずっと寒く感ずる。

気温が低く、眼に飛び込んでくる風と雪の中を歩いていると、とても惨めな気分になる。

鼻水を垂らしながらひたすら我慢して歩いていると、そのうち「いい人生とは」とか、「善く生きるとは」とか「老いていつまでも死なない生に意味はあるのか」などという、人間にとって根源的な問いを発しないではいられなくなる。

それは外界によって惹き起された内面である。

このように厳しい自然環境の中に40年もいると、いつしかそこが精神的な拠り所となるから不思議だ。

また私は近頃、幼少期を過ごした場所を辿ってみたくなった。

森有正は、はるかに行くことは還ってくることだと言っている。

だから私は幼少期の自分と、今の自分は同じであることを確認したいのだ。

私の根幹をつくった幼少期の故郷、そしてまたもうひとつの故郷となった今の場所、どちらも精神の拠り所である。

私にとって故郷とは精神の基盤であるだけに、思考のふるさとのことでもある。

従って故郷喪失とは考えることができなくなった状態のことだ。

いつそんな状態になるのだろう。

ヤダ、ボクまだ家には入らない!

新しい靴

1 月 21st, 2018

すり減った底、破れて水が侵入するようになった靴を、もうこれまでと捨てて新調することにした。

犬の散歩用だから、色々と条件が厳しい。

雪や雨にも対応できるように素材はゴアテックスであること、街中を歩くものではなく、山野を跋渉できるように丈夫であること、登山靴のように履いたり脱いだりが面倒でないもの、そして何より私の大きな足に合うものということになる。(女物なんか絶対入らない)

それをひとつずつクリアしていったら、なんと息子が今履いているものと同じになってしまった。(もちろん大きさは全く違う。私の足は28.5センチもない)

今朝は新しい靴を履いて意気揚々と散歩に出た。

底のギザギザがよく雪や氷をグリップするので安心して歩けた。

しかし、それに気をよくして足許にあまり注意を払わないで歩いていたら、見事に滑って転んだ。

仰向けになった私を不思議そうに見下ろすギャビ。

下から見上げるギャビは、以外と大きくて、コドモのような顔をしていた。

あれほどすり減った靴底であっても、そうであるからこそ細心の注意を払って歩いていたので、この冬一度も滑って転んだことはない。

やっぱり油断大敵である。

人間は失敗からしか学べないが、私はこの先何回失敗して新たに学んでいくのだろう。

上手に転んだので頭も打たず、ケガも痛みもなかった。

ボクしらないよ〜。