もう2月17日
またきょうも雪。
こんな日は犬や猫とヌクヌクと部屋に籠る。
久しぶりにピアノなんかも弾いてみる。
ヘタになっているけど、やっぱり指先から流れ出る旋律の美しさに自己満足の境地。
お客さんもなく、暇で家事など最低限のことしかしていないので、ノンビリぐうたら暮らしている。
テレビもいいけど、当方のテレビではBSが見られない。
だから本でも読むか、ということになる。
先日阿部謹也の『自分のなかに歴史をよむ』という本を読んでいたところ、こういう記述があった。
「交響曲は、キリスト教の教義に基づく宇宙の一元化のために、多声音楽として成立し、俗謡は禁止されようとした。以下略」
詳しくは書かないが、私はここを読んで交響曲の成り立ちに心から納得できた。
つまりキリスト教圏では交響曲は娯楽ではなく、世界を解釈するための一つの形ということである。
なるほどハイドンの『天地創造』などという交響曲が生まれるわけだ。
私が交響曲に対して思っていたことは、交響曲は必ずひとつの緻密な構成として終わることであり、その絶対性に、どうして西欧の人はそこまでやりたがるのかということであった。
もちろんその一つのまとまりをもった構成には私自身大いにシビレるが。
特にベートーヴェン!
でも完結をみないで相対は相対のままでおいてもよいのではないか、統一から離れてもよいのではないか、ということを60歳くらいから考えはじめた。
近頃は腰を据えて聴かなければならない交響曲は聴かない。
バレンタインデー
孫がせっせとバレンタインデーの“友チョコ”を作っていた。
湯煎で溶かしたチョコレートを星形に流し込み、製菓用アザランできれいに飾り付ける。
手際よく器用に作る。
去年楽しそうにチョコレートを作っている孫に水をさしてやった。(これがおばあちゃんのすることか!と今は反省している)。
「3世紀ごろの古代ローマ時代、士気が下がると言う理由で兵士は結婚を禁じられていた。それを哀れに思った司教のバレンティヌスは、密かに恋人同士を結婚させた。それが皇帝の知るところとなり、バレンティヌスは処刑された。それが2月14日だったのである」。ということを孫に話したのだった。
今年の孫はあっけらかんとして「処刑記念日かあ」と言いながら出来上がった“友チョコ”の包装に余念がなかった。
日本でのバレンタインデーは、もうそんな文脈から離れ、今やチョコレート会社の戦略にウマウマと乗せられた人々の間で、一代イベント化している。
でも女から男への、堂々の告白の機会ととらえれば、これを誰が止められようか。
近頃は男性だけではなく、家族や友人に贈り合うのだとか。
そしていかにも日本的な“義理チョコ”は社内で禁止令が出るところが続出し、なくなる傾向にあるという。
もらった方だって迷惑なのだからそんな習慣はやめてしまえばいい!
明日は私の大好きなチョコレートを買ってこよう。(売り切れかもしれないけれど)
男にはもちろん、誰にもやらん!
かつてのギャビと孫
オレンジピールチョコレート
もうすぐバレンタインデーである。
私はこの日を心底待っていた。
といってもどこかのジイさんにチョコレートをプレゼントするためではない。
当方からクルマで20分ほどの茅野市に、我々ひいきの小さなケーキ屋さんがある。
ここはしっかり者のおばあさんと、実直で職人気質のおじいさん二人でこじんまりと商いをしている。
このケーキ屋は、毎年バレンタインデーの時期になると、私の大好きなオレンジピールのチョコレートを作る。
これが旨いのなんのって!
オレンジピールはケチケチとした細いものではなく、私の小指ほどの大きさだ。
それをオレンジリキュールの入ったチョコレートでコーティングしてある。
有名店の”お取り寄せ”のバカ高いオレンジピールチョコレートより、はるかに安くて美味しい。
オレンジピールのチョコレートを偏愛している私にしてみれば、通年の販売をお願いしたいところだが、いや待てよと思う。
もしそうなれば私は恐ろしいほど太るに違いないからだ。
季節限定でよかった。
バレンタインデーなんてくそくらえ!と思うけど、これがあるため私は大好きなオレンジピールチョコレートがたくさん食べられる。
自説を曲げよう。私は柔軟だ。
オレンジピールチョコレートは、きょうが初売りだった。
孫は今年も手作りチョコを作るという。
「カレシへのプレゼントかい?」と私がからかったら「友チョコだよ〜!」と怒られた。
ボクは食べられないんだね。
2月8日
今朝7時に雪が降っていたので積もるかと思いきや、すぐにやんだ。
世界を薄く白く塗込めたような、こんな雪の降り方が好きだ。
暦の上ではもう春。
雪が降っていて春もないもんだと思うであろうが、確かに陽射しは明るく、冷気にも大寒の頃のような厳しさが感じられない。
ここに住んでいると暦のうえでの春夏秋冬がキチンと感じられる。
私は冬とも春ともつかぬ3月が好きではない。
そして夏とも秋ともつかぬ9月も好きではない。
どちらも自然が漏らしたあくびみたいなもの、もっと品悪く言えば屁みたいなもの、と言ったら友人に怒られた。
その友人は3月がもっとも好きな季節だという。
その曖昧さから、そこはかとない哀しみを覚えるのだとか。
そうか、私って単純なのね、と納得した。
まあ、好きも嫌いも人それぞれと言ってしまえばそれまでであるが、私は安直な相対主義に堕するのがイヤだ。
最近これが世間に満ちあふれている。
異なる意見や主張を出し尽くし、ぶっつけ合い否定し合い、肯定し合いしながら、何とか一致点をさぐっていくことこそが民主主義であり思考の探求であると思う。
そうやって導きだした普遍性こそ、人間の叡智であると思う。
真理と同様たとえそれが暫定的なものであるとしてでもである。
それをしないで安易に“人それぞれ”と決めつけるのは、単なる不勉強でしかない。
中身をよく吟味しないで、あるいはよく分らないので“人それぞれ”といって逃げる。
そのくせそこには、人はそれぞれ違う個人である、という視点が抜け落ちている。
人それぞれと言いながら、実はそれぞれ皆一緒と言っているようなものである。
きょうは気分がいいよ。
逝ってしまったももちゃん、17歳と10ヶ月
トイプードルのももちゃんが17歳と10ヶ月で逝ってしまいました。
とうとうお別れでした。
(12歳の時のももちゃん)
ちょっとした病を抱えていましたが、飼い主さんが大切に大切に育てたので、このように長生きすることができたのですね。
毎日パパに丁寧に歯磨きをしてもらっていたのですよ。
(13歳の時のももちゃん)
紳士的な黒ラブのフィーゴや、当方のガサツなギャビと一緒に新緑の中を歩いた思い出があります。
大きな犬たちに少しもひるむことなく、元気に長い距離を歩きました。
周囲にそれとなくお別れを済ませ、最期は大小の用も済ませ、パパに抱かれて静かに逝ったそうです。
賢くて気だての良いももちゃんらしい、きれいなお別れでした。
17歳と10ヶ月、幸せな年月をありがとう。