東京から2時間、名古屋から2時間半。八ヶ岳中央高原 原村へようこそ!

ペンション グリーングラスでのんびりとした休日はいかがですか?
森の散歩道や、渓流、白樺の林をぬけて薫る高原の風。
あふれる自然に人も犬もきっとリフレッシュできますよ。
長野県諏訪郡原村 中央道諏訪南ICより自動車で約10分
首都圏から一番近い”村”である原村のペンションです。
長野県諏訪郡原村17217-1682






我が家の犬や猫、お客さんの犬、八ヶ岳の自然などについての日記を綴っています。
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エアロバイク

3 月 11th, 2019

「将来寝たきりになられても困るからなあ」

と、息子が2ヶ月早いバースデイプレゼントとしてエアロバイクを買ってくれた。

スポーツ用品を売っている「アルペン」で、機能を最小限に抑えた旧モデル、安くなっていて14000円ちょっとのものだ。

息子からのプレゼントなんて、彼が小学生のときにくれた“お手伝い券”以来のものである。

なんだか面映い気分であったが、素直に嬉しかった。

早速試してみたがこれが思った以上に良い。

私のように無精な人間にはピッタリのもので、負荷のかけかたも自由自在、どれだけ走ったかという距離数もカロリー数も出るし、なにより座ったままできることがいい。

ハンドルを握らないで新聞や本を読みながらでもOK、テレビを見ながら、考え事をしながら、野鳥が餌をついばんでいるのを窓越しに眺めながらでもできる。

そしてメニューを自分で工夫しながらできることもいい。

私は負荷を最大にかけた状態で100カロリーを消費し、負荷を少し落とした状態で20秒間全速力でペダルを踏む。20秒休んでまた20秒全速力でペダルを踏む。

要はインターバル速歩と同じようなことができるのだ。

あとは春のあぜ道を走るように、気持ちよくゆるやかにペダルをこぐ。

運動ギライの私にとって、これなら続けていかれると確信している。

2週間すぎたところで、なんと体重は変わらないけれどウエストが細くなって、それまでベルト無しで穿いてもしっかり腹に食い込んでいたズボンが、今やベルトが必要になってきた。

それを隣のおばさんに話したら「買う!私も買う!もう置き場所がないけど廊下に置く!」と興奮しながら言った。

彼女の“フィットネスルーム”には通販で買い求めた健康器具があふれているけれど、果たして使っているのかどうか。

「一番長く過ごす居間に置かなくてはダメよ。思いついたときにすぐできるからね」と私はエラそうに忠告した。

そして思った。自己流でやってまたやり過ぎによるケガなどしては元も子もない、と数々の失敗から学んだ教訓が私には残っていたらしい。

そこで行きつけの接骨院の先生にこのメニューでよいかどうかを相談したところ、負荷をかけて激しくする場合は二・三日おきに、”タラタラこぎ”でやる場合は毎日80〜100カロリー消費を目安に、ということだった。

次に先生は「大丈夫、いまからやれば寝たきりにならなくて大往生だあ」と言われた。

明日死んでも大往生かなあ。

きょうは大雪。

雪を眺めながらペダルをこぐぞ〜!

ニイチャン、カアチャン足腰丈夫になるのはいいけど、徘徊するよ。

きょうも言いたい放題

3 月 4th, 2019

日本の女性の平均賃金は男性を100とした場合、たった7割で先進国の中では最低だという。

これも統計のマジックでほんとうはもっと低いらしい。

それを裏付けるように日本の男女格差は世界114位だそうだ。

何が先進国、美しい国なもんか!

女性が活躍できる社会、男女共同参画などが謳われ、女性でも活躍している人はいるなんていうけれど、それはどうかなあ。

女が活躍できる場合とは、男が女に対してあらかじめ要求している、もしくは用意した枠の中で成功しているのであって、女性全体の新しい可能性を示すことはない。

もっともデキル女の足を引っ張るのはデキナイ女であることも昔から確かである。

それだとて仕組みと意識を変えたら男性社会と同じようになるのではないか。

とはいえ、この日本も50年前に比べたら相当よくなってきた。かつては憤死しそうな差別がいくらでもあった。私は決して忘れないからね!

少子化問題を頭の悪い政治家は、さも産まない女が悪いようなことをいうが、女をナメたらいかんよ!

今日の女は医学的知識を持ち、自分の目的意識に沿って子供を持つか持たないかの裁量権を握ったのだよ。

バカな女の政治家が子供を4人以上産んだ女性を表彰したらどうか、と自分はひとりも子供を産んだことがないくせに呆れた発言をしたことがあった。

こういった私と同年のクソババア、クソジジイがいる限り事態は変わらない。

かつて女の子に叩き込まれてきた母性の“神聖な”役割を望む女なんて、いまどきいると思う?

家事、育児に縛られることは自分の幸福の追求を妨げることであると同時に、経済的事情がそれをゆるさないということも問題なのである。

子育て後の体力も気力も残っている何十年をどう過ごすか、変化していく配偶者との関係を見据えた上での女性の社会進出は必然的なものである。

ブラック企業があるようにブラック婚だってあるのだから。

そういった複雑な構造はまさに近代文明が生み出した結果にほかならない。

科学技術の生み出す状況は、確実に若い夫婦の家事の役割分業意識を変えている。

夫が赤ん坊のオムツも変えればミルクも与え、食事もつくり洗濯もする。

この変化にかつてのフェミニストである私は淡い希望をもっている。

女が活躍できる社会とは、同時に男性同様に責任も引き受けることであるが、賃金も含めた男女同権でなければそれも不可能だ。

カアチャンはまだフェミニストなの?

奴隷の幸せもあるんだよ。

そんなこといったらボクたたき出されるね。

少女たちの「お泊まり会」

3 月 3rd, 2019

ネエチャンたちと共にいられて嬉しいギャビ。

小学4年生の孫娘の友達二人が来て“お泊まり会”だった。

よく遊び、よく食べ、楽しそうにしている彼女たちを見ていたら、私の4年生のころはどんなだったのだろう、と記憶をひもといてみた。

常にフェアであったノダテルオ先生、仲良しだったキヨコちゃん、キクシマ君などが思い出されるが、中でも思い出深いのはノダ先生の指導のもと、学級新聞の制作と連載であった。

当然ガリ版刷りの粗末なものであったが、記事を書くことの面白さを私は初めて味わった。

そのころから将来は新聞記者になりたい、という漠然とした願望をもっていたが、成長する過程でそんなことは雲散霧消した。

自分にとってのライフワークとは何かを問う精神は、ちょうど小学校4年生頃から芽生えてくる。

しかしその芽を生かすも殺すも環境である。

私の場合、自立の後押しをするどころか足を引っ張ったのは身近な親、兄弟であった。

古い因習から抜けられない両親は無言の縛りを私に与え、優秀な兄二人は出来の悪い妹を甘やかし、また哀れんだ。

どちらも“女”だからということであった。

また私も女であることに縛られ、安易なところに逃げた。

それでも成人してからは(経済的に自立してからは)自分の思想や精神を中心にして生きていこうと決意した。

そして私は、これまで意思決定をしてきたのは私自身であると思っていたが、実は親の血とともに考え、かつ行動してきたにすぎないということに気がついた。

「私」とは環境そのものなのである。

このくったくなくはしゃいでいる女の子たちを見ていると、これから成長する彼女たちの芽を、大人たちは決して摘んではならない、と思った。

久々のワンコたち

3 月 2nd, 2019

マルちゃん、マメちゃん、マロちゃんの3Mきょうだいと、チョコラブのニケちゃんが来てくれました。

マル

気は強いけど甘えん坊の男の子

撫でてやると大喜びするのです。

もっともっと!の催促も。

マメ

穏やかな性格です。

遠慮がちにやってきて甘えてくれました。

マロ

ピンボケになってしまってごめんね。

賢いトイプードルでした。

ニケ

サモトラケのニケからとった名前でしょう。

船首に立ち、翼を広げ航行の守り神であるニケ。

ルーブル美術館にその美しい彫刻がありますね。

トマトが大好きなニケちゃんにミニトマトを上げたら、私の顔をペロリと舐めてお礼をしてくれました。

女神のように美しいチョコラブのニケちゃんでした。

塩山詣で

2 月 21st, 2019

私は月一回、山梨の老人施設に恩師をその奥さんと一緒に訪ねている。

きのうもまた先生は、先月私が訪ねたことなど忘れており、まるで何年振りかで会うような対応をしてくれた。

でもこの「八ケ岳のオネエサマ」(先生の口癖)が宿泊業をしていることを思い出されたのか、お客さんの入りを心配してくれた。

前回は私がまだ学生だと思っていたフシがある。

このように記憶は複雑に錯綜しているらしい。

今回お会いした印象は、どうも先生にとってご自分の大切なものがますますハッキリしてきて、それが研ぎすまされてきているということだった。

以前の職場の人のことなどきれいサッパリ忘れているのに、先生の著作を読んで感激したアメリカ人が、先月訪ねて来てくれたことなどはしっかりおぼえている。

その時同行したのは以前の職場の人だったのに、その人のことは完全に忘れている。

そのくせ20年も会っていない親友のことを話すときは、実に優しくいい顔をなさる。

「キミの息子は結婚したの?」とお訊ねになるので「ええ、小学生の娘もいます。私にとっては孫ですね」と答えた。

すると「そうか、ボクには孫はいないんだよ」と。

ビックリした奥さんが「ナニいってるの!息子二人と孫二人がいるでしょ!」とたしなめても、不思議そうな顔をするばかり。

私もいずれきっと同じことをいうに違いない、と思って非常に愉快な気分になった。

一方、「このホテルはお昼ご飯を出してくれない」と訴える先生に奥さんがバナナを渡しながら、私に「あなたが哲学に興味をもったのはいつからなの?」とお尋ねになった。

そこで私が「高校生3年の時の誕生日に、祖父が読み古したプラトンの『饗宴』を“バースデイプレゼント”だといって渡してくれた時からです。ちっともうれしくありませんでしたけどね」と答えた。

すると、それまでもぐもぐバナナを食べていた先生の眼がキラリと光り「高校生で『饗宴』を読むのは大変だ。プラトンは深い」とおっしゃった。

ああ、私もこのように年をとりたい、と思った。

(かつてのギャビと孫)

帰りのクルマの中で、私は今の仕事がいつまで続けられるか分らないけど、先のことを思い煩うことをしないで、その日一日を精一杯生きる「その日暮らし」をしようと思った。

『聖書』には「なにをおそれるか、何もおそれるものはないのだよ」ということが通奏低音のように鳴り響いているそうだ。(信大の宗教学の先生から教わった)

私は『聖書』をはじめから通して読んだことはないが、そういわれてみるとハッとする。

哲学者にして浄土宗の宗教家でもある清沢満之の『我が信念』を読んでもそれを感ずる。

宗教とはそういったものかもしれない。

きのうはとてもいい日だった。